病室で気づいた現実
入院手続きの際、佐々木さんは初めて戸惑いました。緊急連絡先の記入欄。兄の電話番号は知っていましたが、最後に会ったのは10年以上前です。
「何かあったら連絡します、と病院の人に言われて、『兄です』と書きながら違和感がありました。もし本当に危険な状態になったとき、この人は来るのだろうかと」
国立社会保障・人口問題研究所の将来推計によると、単身世帯は今後も増加を続け、2050年には全世帯の44.3%を占める見通しです。そのようななか、身元保証や緊急連絡先の確保は社会的な課題として指摘されています。
しかし、その現実を実感するのは、当事者になった瞬間でした。入院費は高額療養費制度の対象となり、経済的な負担は想像より小さく済みました。個室代を含めても数十万円。5,000万円の資産を持つ佐々木さんにとって支払えない額ではありません。
問題は別のところにありました。
「夜になると急に怖くなるんです。もし後遺症が残ったらどうしよう。認知症になったらどうしよう。誰が私を病院に連れて行くんだろうって」
仕事仲間から連絡が来たり、友人が見舞いに訪れたりしました。それでも病室で一人になると、言いようのない不安が押し寄せました。
退院後も不安は消えません。以前は気にならなかった体調の変化が恐ろしくなりました。少し頭痛がするだけで脳梗塞を疑い、夜中に何度も目が覚めるようになりました。
お金では買えないもの
ある日、同年代の既婚女性社員が介護のため早退する姿を見て、佐々木さんは複雑な感情を抱いたといいます。
「昔は大変そうだなと思っていました。でも今は違います。あの人には頼れる家族がいる」
もちろん家族がいても問題が解決するとは限りません。相続争いや介護離職、老老介護など、多くの家庭が別の苦労を抱えています。それでも佐々木さんの目には、自分にはない支えがあるように映りました。
その後、佐々木さんは兄へ連絡を取ってみました。ぎこちない会話ではあったものの、久々に自分には家族がいることを感じることができました。一方で、自分の資産や医療・介護の希望について整理し、任意後見や見守りサービスについても情報収集を始めています。
ただ、それで不安が消えたわけではありません。
「通帳残高を見ると安心するんです。でも、その安心は数分しか続かないんですよ」
金融経済教育推進機構『家計の金融行動に関する世論調査(単身世帯調査)2025年』によると、50代単身世帯における金融資産保有額(非保有含む)の平均値は999万円、中央値は120万円。5,000万円の資産は同年代でもトップクラスですが、その経済的ゆとりをもってしても、孤独の恐怖はカバーしきれません。長寿化が進むなか、老後の課題は「いくら貯めるか」だけではなくなっています。
佐々木さんは今も毎月10万円以上を投資に回しています。金融資産は増え続けています。しかし、病気を通して感じた恐怖だけは消えていません。
「お金があれば大丈夫だと思っていました。でも病院のベッドで気づいたんです。私が本当に怖かったのは、ひとりになることでした」