突きつけられた選択
「施設にはもういられないそうです」
相談員から告げられた言葉を、佐伯さんはいまでも正確に覚えています。ホーム側は退去勧告という表現こそ使いませんでした。しかし、医療対応の限界を理由に、より重度者向け施設への転居を勧めてきたのです。
紹介された施設の費用を見て、佐伯さんは言葉を失いました。月額34万円、年金との差額は毎月19万円です。
「そんな金額、続けられるわけがない」
思わず口にしたそうです。特別養護老人ホームへの申し込みも検討しました。しかし待機者は多く、すぐの入所は見込めないといいます。
実際、厚生労働省の「特別養護老人ホームの入所申込者の状況(令和7年度)」によれば、要介護3以上の入所申込者は全体で20.6万人に上ります。前回調査から減少したとはいえ、依然として待機者は多く、佐伯さんのような家族には厳しい現実が突きつけられています。
一方で、母親を自宅で引き取る選択肢も現実味を帯び始めます。ただし、それは別の問題を意味していました。
介護と仕事の両立。夜間対応が必要な母を一人で支えるなら、仕事との両立は極めて難しくなります。会社の上司に相談した際も、返ってきたのは厳しい言葉でした。
「介護休業は使える。でも何年も続く話じゃないよな」
その日の帰り道、佐伯さんは考えを巡らせていました。
仕事を辞めれば母親は看られるかもしれない。しかし、自分の老後資金は確実に消えていく。
「母の人生と、自分の人生を天秤にかけているみたいでした」
介護離職者は年間数万人規模で推移しています。親を支えるために仕事を手放す人は決して少なくありません。ただ、その先に待っているのは収入減だけではありません。
再就職の難しさ。老後資金の不足。社会との接点の喪失――佐伯さんは55歳。定年までまだ時間があります。しかし、母親の介護も終わりが見えません。明日、突然終わるかもしれないし、10年後も同じ状態かもしれない。
退去期限が近づくなか、机の上には施設のパンフレットと退職後の生活費を試算したメモが並んでいます。