(※画像はイメージです/PIXTA)
結果として破滅に繋がった、秋の回復
幸運にも、2024年秋には市場が回復しました。Aさんの資産はもとの水準近くに戻ります。「持ち続ければ上がる。やはり俺は正しかった」——Aさんは再び、己の知性と優秀さを誇る全能感を取り戻します。
しかしこの「回復体験」こそが、Aさんにとって最も危険な出来事でした。あの恐怖の数週間から、Aさんが学んだ教訓は「リスク管理の必要性」ではなかったのです。「嵐が来ても、じっと持ち続ければいい」「株式投資とは根性だ」という、根拠のない精神論の強化でした。Aさんの思考は、もはや投資ではなく、自己肯定感を強化するための試練のように変質していたようです。
勢いを取り戻したAさんは、SNSへの投稿も再開しました。「8月の暴落を耐え抜いた。パニック売りする奴らは愚鈍」。また引用ポストで一斉に揶揄されているようでしたが、気にしません。
2025年春、トランプ関税ショックによる「2度目の崩壊」
そして2025年4月、米国トランプ政権が主要国への相互関税を一斉に発動しました。世界市場は急速に冷え込み、日経平均は4月7日に3万1,000円台まで急落。ハイテク株を中心に売りが広がり、Aさんの運用画面は再び赤く染まります。含み損がマイナス150万円を超えた日、Aさんはしばらく画面を見つめたまま、動けなくなりました。
前回の暴落と明らかに違ったのは、Aさんの内側でなにかが音を立てて壊れたことでした。「前回は数ヵ月で戻った。しかし今回は大統領の政策が原因だ。貿易摩擦が長引いたら。本格的な景気後退が来たら。今度こそ、戻らないかもしれない」そんな考えが頭から離れなくなります。
毎朝スマートフォンを開くたびに、10万、20万と削られていく数字を確認する。年金以外に収入のない生活で、出ていく一方の残高を眺め続ける——。次第に食事の味がしなくなりました。夜中に目が覚め、天井を凝視する夜が続きます。
精神的な限界を迎えたAさんは、SNSのアカウントを削除しました。心のどこかでは「たぶん、この相場もきっと戻していくだろう」とわかっています。ですが、なにかが決定的に違いました。心底疲れたのかもしれません。嫌気が差したのかもしれません。「なにをやっているんだ俺は……」という虚しさが芽生えはじめていました。
相場が乱高下すること自体は、市場の常として受け入れることもできました。しかし、投資の波に連動して自分の感情と自己肯定感までが激しく乱高下を繰り返す日々に、もう耐えられなかったのです。
「最近元気がないけれど、どこか具合でも悪いの?」妻が心配そうに顔を覗き込んできても、Aさんは「なんでもないよ。少し疲れているだけだ、朝のウォーキングを少し頑張りすぎたかな」と、力なく笑って誤魔化すしかありませんでした。
投資に手を出した定年夫、2年間の顛末
その後、再び市場は回復しました。
Aさんは回復したタイミングですべてを売却し、手元に現金を戻しました。特定口座の分の税金を引かれ、数字の上では、致命的な損失もはありませんでした。ほんの少しの運用益があっただけです。
「現金に戻すときには唇に血が滲みました。……別にタダで遊んだと思えばそれでいい。でもひどく疲れた」。それがAさんの素直な気持ちでした。
Aさんは「もう投資はこりごりだ」と思いつつも、「俺はあのときパニック売りしなかった俺は超優秀だ、さすが俺だ」という、意味のない驕りをまた持ち続けています。
投資を本来の目的ではなく、自己肯定感の道具にしたとき、そこには徒労感しか残りません。チャートの乱高下が感情の乱高下となったとき、プロの投資家が感じる疲れとは違う疲れを感じるようになるものです。年金だけが頼りのシニア世代であれば、なおさらでしょう。
長岡理知
長岡FP事務所
代表
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