就職氷河期を正社員として生き抜いた層にとって、2000年代の低物価社会は、皮肉にも最も「暮らしやすい」時代でした。しかし、そのデフレを謳歌した日々は、実は未来の自分たちから「備え」を前借りしていたに過ぎません。今回は、55歳のTさんの事例から、正規雇用の「勝ち組」就職氷河期世代の実態を紐解いていきます。※個人の特定を防ぐため、事例は一部脚色しています。
月収51万円・55歳サラリーマン、コンビニで「千円札」を出すのをためらったワケ…「デフレを謳歌した氷河期世代」が老後直前に突きつけられる非情な現実 (※画像はイメージです/PIXTA)

「正規雇用の勝ち組」という幻想

非正規雇用で苦しんできた氷河期世代の問題は、これまで何度もメディアで取り上げられてきました。年収200万円台、ボーナスなし、退職金なし、厚生年金の加入期間も短い。その層が老後に直面する困窮は、いまや社会問題として認識されつつあります。

 

しかし、見落とされてきたのが、Tさんのような正規雇用組の危うさです。正社員として働き続け、住宅ローンも組み、子どもを大学に進学させる。一見、安定した「勝ち組」のキャリアです。しかし蓋を開けてみれば、貯蓄はわずか、投資経験はゼロ、副業スキルもなし、退職金も以前ほど期待できない。老後の収入は公的年金だけ。55歳現在のTさんの月収は51万円で、預貯金は700万円です。40代で都内に中古マンションを購入しましたが、住宅ローンの完済予定は76歳です。一方で物価は上がり続け、老後に修繕費が嵩む自宅を維持できるのか――。

 

就職氷河期世代の正規雇用という肩書は、安定を保証するものではありません。給与水準は上昇率がほぼゼロのまま据え置かれ、退職金制度は縮小され、企業年金は減額されました。それでも物価の安さで生活できてきたのです。「会社員として一生懸命頑張れば大丈夫」という根拠の薄い安心感が、本来やるべき資産形成や、複数の収入源づくりなどを後回しにしてきました。

50代を襲う、教育・介護・医療の「三重苦」

現代の人生設計のなかで、最も支出が多いのは50代です。子供の大学進学をはじめ、自分や配偶者のガンや脳卒中などの健康問題、それに加えて、80代となった自分の親の介護の問題が揃い踏みする時期。Tさんも、長男は私立理系の大学3年生。年間の学費は150万円を超えています。次男は高校2年生で、来年からは本格的な受験対策の塾代が乗ってきます。

 

そして、妻Mさんのこと。Mさんは3年前、脳卒中で倒れました。一命は取り留めたものの、後遺症で右半身に麻痺が残り、長年勤めていた会社は退職せざるを得ない状況に。月25万円の正社員の収入はゼロになり、健康保険組合の手厚い保障も失いました。毎日のデイケアへの通所、病院への通院、介護費用やヘルパー代など、新たな出費が積み重なっています。脳卒中で倒れてからの1年間、Tさんは休職しました。妻の障害が重く、とても仕事との両立ができなかったためです。このときにTさんは役職を離れざるをえず、復帰後の年収と退職金が大きく減る原因となりました。

 

さらに追い打ちをかけたのが、Tさんの父親です。去年の暮れに愛知県の実家に帰省したとき、父親が息子の顔をみるやいなや、「泥棒!」と叫びました。母親に聞くと、突然怒り出すことが増えていたといいます。診断は認知症。進行は思いのほか早く、今年の春には母親一人での介護が限界に達しました。

 

「お父さんが夜中に外に出ようとして、私もう、眠れないの」

 

母親のその一言で、Tさんは父親を介護施設へ入居させることを決断します。入居した施設は、月額18万円。父親の年金だけでは7万円ほど足りず、その差額はTさんが補填しています。施設に入れたからといって安心はできません。毎週のように新幹線に乗って面会に行き、ケアマネージャーとの打ち合わせ、医療費の精算、衣類の補充をします。

 

教育費、妻の医療費、父親の施設費。3つの出費が同時に流れ込み、預金通帳の残高は、目にみえて減り続けています。Tさんは妻にも息子にも、その通帳の数字をみせたことがありません。「とても55歳の男の残高じゃないな」いつもATMの前でそう呟いてしまいます。