老後の安定した収入源となる公的年金ですが、受け取り時期を遅らせる「繰下げ受給」には、常に「元が取れるか」という損得論がつきまといます。 そんな現役世代の論争に対して、当の本人たちはどのように考えているのでしょうか。 ある女性のケースから、長寿社会における年金の役割を考えていきます。
「年金の繰下げなんてやめておけ」と聞いていたが…「年金の損益分岐点」より前に夫を亡くした77歳妻が笑っていられる理由 (※写真はイメージです/PIXTA)

年金なんて、損得じゃないのよ

神奈川県内の分譲マンションで一人暮らしを送る、高橋明美さん(77歳・仮名)。5年前に夫の正雄さん(享年72・仮名)を亡くしました。 正雄さんは現役時代、精密機器メーカーのエンジニアとして勤務。定年後も「動けるうちは社会とつながっていたい」と再雇用制度や関連会社での勤務を継続し、70歳までフルタイムで働き続けました。

 

「主人は仕事そのものが生きがいのような人でした。70歳までしっかりとした収入がありましたので、生活に困ることはありませんでした。そのため、夫婦で話し合い、自然な流れとして公的年金の受取りを70歳まで遅らせることに決めたんです。私も主人の扶養に入りながらパートタイムで働いていましたので、自分の年金も同じく70歳まで繰り下げました」

 

夫婦が選択したのは、受給開始を5年間遅らせる「繰下げ受給」でした。当時の正雄さんは持病もなく、毎朝の散歩を欠かさないほど健康。自分たちの健康状態と就労収入を鑑みた上での、合理的な判断でした。

 

しかし、受給開始からわずか2年後、正雄さんは自宅で倒れ、急性心筋梗塞で急逝しました。それから3年ほどたったころ、50代に突入する息子から年金についていろいろと尋ねられたことがあったそうです。

 

「老後が間近になり、意識が高まったようです。話の中で『繰下げなんてやめておけと言われているのに、なぜ繰り下げしたのか』と聞かれました。主人が繰下げを選んだのに、年金を2年しかもらえなかったのは損だというのです。ああ、そういう考え方もあるんだと、初めて知りました」

 

よくいわれる年金の「損益分岐点」。70歳まで受給を待機した場合、受取総額が65歳受給開始のケースを上回るには、一般的に82歳前後まで存命である必要があるといわれています。明美さんの場合、65歳から年金を受け取っていれば、月10万円ほどでした。夫の死から5年が経過した現在、受け取っている年金は、繰下げで増額となった自身の年金と、遺族厚生年金を合わせた月18万円弱だといいます。

 

「手取りにすると月16万円ほど。一人暮らしの生活において、この月々の上乗せ分がどれほど大きな支柱になっているか、わかりますか?」

 

年金だけで生活でき、貯蓄はほとんど取り崩さなくても暮らしていける――。その安心感は大きいといえます。損とか得とか考えたことはなく、自身の選択を間違えていなかったと明美さんは語ります。 彼女は現在、近隣のコミュニティセンターに通い、友人とのささやかな交流を楽しみながら、穏やかな日常を送っています。