親子の情愛だけでは乗り越えられない、在宅介護の厳しい現実。良かれと思って始めた同居が、認知症の発症によって思わぬ方向へ進んでしまうケースは少なくありません。 ある親子のケースから、在宅介護の転換点を考えていきます。
「この家から追い出すつもりか!」年金月12万円・82歳母「老人ホーム入居」を拒否…年収850万円・55歳長男が限界を迎えた「親子同居」の結末 (※写真はイメージです/PIXTA)

家を追われたと言い張る82歳母

都内のIT企業で働く佐藤健一さん(55歳・仮名)。3年前から静岡県の実家で一人暮らしをしていた母・和子さん(82歳・仮名)との同居を開始しました。健一さんの年収は850万円。 経済的な不安は少なく、和子さんも月12万円の年金を受給していたため、当初は「無理のない親孝行」になるはずでした。

 

しかし、同居から1年が経過したころ、和子さんに軽度の認知症の兆候が表れ始めました。健一さんが仕事から帰宅すると、台所の床に調味料が散乱していたり、冷蔵庫の中身がすべてゴミ箱に捨てられていたりすることが増えたといいます。

 

「母さん、どうしてこんなことをしたんだ」

 

健一さんが静かに問いかけると、和子さんは「知らないわよ。あんたが勝手にやったんでしょう」と、強い口調で言い返しました。和子さんは、自分が忘れてしまったという事実を認められず、次第に被害妄想を募らせるようになりました。

 

ある日には「あんたが私の通帳を盗んだ」と健一さんをなじり、近所の住民にまで「息子に虐待されている」と言いふらすようになりました。健一さんは、日中の介護をデイサービスに頼りながら仕事を続けましたが、夜間の徘徊が始まると状況はさらに悪化しました。

 

深夜2時、玄関の鍵を開けようとする音で健一さんは目を覚まします。和子さんはパジャマ姿のまま、靴も履かずに外へ出ようとしていました。

 

「どこへ行くつもりなの。夜中だよ」

「静岡に帰るのよ。ここは私の家じゃないわ。あんたが無理やり連れてきたんでしょう」

 

住み慣れた実家での暮らしを奪われたという感覚が、認知症によって増幅したのでしょう。健一さんは、地域包括支援センターのケアマネジャーに相談し、専門的なケアが受けられる有料老人ホームへの入居を提案しました。

 

しかし、見学のパンフレットを広げた際、和子さんはそれを手で払い除けました。「あんたは私を追い出して、この家を独り占めしたいのね」。和子さんの目には、怒りと怯えが混じっていたといいます。

 

後日、仕事中に警察から電話が入りました。和子さんが駅前で保護されたといいます。職場に頭を下げて早退し、警察署へ迎えに行った健一さんに、和子さんは冷ややかな視線を向けました。

 

「あんたの顔なんて見たくない。早く家へ帰らせて」

 

そう繰り返す和子さんの背中を見ながら、健一さんは自分が守ろうとしていた家族の形が、すでに修復不可能であることを痛感したといいます。