一見すれば、誰もが羨むような安定した老後を送る高齢者たち。しかし、その平穏な日常が、ある日突然届いた一通の通知や一本の電話によって、音を立てて崩れ去ることもあります。ある男性のケースを見ていきます。
「貯蓄と退職金で5,000万円・年金夫婦で20万円」の65歳男性。老後安泰を確信していたが、一転、破産危機に陥ったワケ (※写真はイメージです/PIXTA)

「資産を守る」という自負が招いた、あまりに皮肉な結末

「今思えば、現役時代の成功体験が判断を間違えたのかもしれません」

 

専業主婦の妻・和子さん(63歳・仮名)と暮らす、佐藤健一さん(65歳・仮名)。大手企業の経理部門で定年まで働き、数字には人一倍厳しい自負がありました。退職金と積立を合わせた貯蓄は5,000万円。公的年金は月20万円。住宅ローンも完済し、老後の安泰は確信していました。

 

変化の兆しは、退職から半年が過ぎたころでした。スマートフォンの画面に表示された「資産運用に関する未納料金がある」という一通のメール。普段なら無視するはずが、その時期、佐藤さんは小口の投資を始めたばかりで、「何か手続きを忘れたか」という疑念が頭をよぎったと言います。

 

記載されていたURLを開くと、実在する金融機関を模したログイン画面が表示されました。氏名や口座番号の一部がすでに入力されており、「不正利用の疑いがあるため至急確認を」との表示が出ていたのです。

 

「ここまで把握されているのかと、正直焦りました」

 

確認のつもりで電話をかけたことが、転落の始まりでした。相手は非常に丁寧な口調で、佐藤さんの職歴や投資履歴に触れながら話を進めました。

 

「経理をご経験ならお分かりでしょう。資金を一時的に保全する措置が必要です」

 

その言葉に、疑念よりも“理解”が先に立ったといいます。指定された投資アプリをダウンロードし、少額を入金すると、数日後には画面上に「評価益+18万円」と表示されました。

 

「やはり正規の手続きだったのだと安心しました」

 

小さな成功体験が、最後の警戒心を取り払いました。しかしその後、相手の口調は徐々に変わります。

 

「資金移動の履歴に不備がある。このままでは口座が凍結される可能性がある」

「マネーロンダリング調査の対象になる恐れもある」

 

内部監査にも関わった経験のある佐藤さんにとって、「凍結」「調査」という言葉は現実味を帯びていました。

 

「自分がコンプライアンス違反の疑いをかけられるかもしれない。その恐怖が先に立った」

 

“保全措置”として、指定口座への送金を求められます。最初は数十万円のつもりでした。しかし、「手続きに不備があった」「このままでは年金も差し押さえられる可能性がある」と、生活基盤を揺さぶられます。

 

「妻に相談したら、自分の無能さを露呈することになる。それだけは避けたかった」

 

気がついた時には、3ヵ月で1,500万円を振り込んでいました。最後の送金から2日後、アプリは突然ログイン不能になります。電話はつながらず、メールも戻ってきません。そのとき初めて、佐藤さんは悟りました。

 

「守ろうとした資産を、自分の手で差し出していた」

 

信じがたい現実に憔悴する佐藤さん。そこへ追い打ちをかけるように、地方で暮らす高齢の父に介護が必要となり、施設への入所一時金が必要になりました。本来なら余裕を持って捻出できるはずの資金は、すでに詐欺師の手に渡った後でした。

 

「年金月20万円。普通に暮らせば十分なはずの額が、今は本当に苦しい。毎月の受給額の半分は、減ってしまった貯蓄を補填し、父の介護費用を捻出するために消えていく。老後の安心を買ったはずの資産のうち、2,000万円近くが一瞬で溶けてなくなるとは……」

 

佐藤さんの言葉には、金銭を失ったことへの痛み以上に、自らのプライドが粉々に砕け散った後悔が滲んでいました。