(※写真はイメージです/PIXTA)
サラリーマン時代の実績をもとに“本物”にこだわったが…
定年退職を機に夢だった喫茶店を開くと夫の田中徹さん(仮名・当時60歳)が言い出したときのことを、妻・智子さん(仮名・当時59歳)は振り返ります。
「夫が店を出そうとしたところは駅から距離があり、人通りもまばらな住宅街。『本当にこの場所で大丈夫?』と言うと『俺がやるんだ、素人とは違う』と……」
大手で部長まで務め上げた徹さんは、妻の懸念を一笑に付したといいます。徹さんの理屈は「本当に良い店には、客はわざわざ探し出してでもやって来るもの」というもので、自身は「その本物を作る自信がある」と、えらく自信満々だったといいます。
長年温めてきたカフェの開業。そのきっかけは10年ほど前から始めた禁煙で、口寂しさを紛らわすために飲み始めたコーヒーの魅力に、徹さんはどっぷりと浸かっていったのです。休日のたびに全国の有名店を訪ね歩き、豆の種類、焙煎方法、淹れ方による味の違いを研究するうちに、いつしか「自分の理想の一杯を提供する店を持ちたい」という情熱に変わっていきました。
徹さんは会社員時代、数々のプロジェクトを成功に導いてきた実績がありました。飲食業界ではなかったものの、その実績が自信の裏付けになっていたようです。退職金3,600万円のうち、2,000万円を開業資金+当面の運営資金として邁進する夫に、智子さんは何も口出しはできなかったといいます。
オープン当初は、かつての部下や取引先が開店の祝いの花を手にひっきりなしに訪れてくれました。物珍しさから、近所の人たちも来店。いきなり人気店の雰囲気に、徹さんの自信は確信に変わっていきました。
しかし、その賑わいが「開店祝い」という一過性のものであることに気づくには、それほど時間はかかりませんでした。1ヵ月もすると、知人たちの足はぱったりと途絶えました。それでも、智子さんが様子を聞いても「大丈夫」の一点張りだったといいます。
「全然、宣伝とかしないのだから、当たり前ですよね。『SNSとかやってみたら?』と言うと、苛立った様子で『安売りをする気はない。俺のやり方が間違っていない。素人が口出しするな!』と。自分も素人のくせに」
客足が増えることはなく、店の赤字は膨らむばかり。その顛末を、智子さんは淡々と語ります。
「ある日、夫から店の口座が底をついたことを示す通帳を渡されたんです。残っている退職金でどうにかしたい、と相談したかったのだと思いますが、私は夫の目の前でそれをぴしゃりと閉じ、突き返すようにテーブルに置きました。そうでもしないと、夫の目が覚めないと思ったんです」