(※写真はイメージです/PIXTA)
「お父さん!」呼びかけに答えない扉の先
「もう、こうなったら行くしかない」
電話がつながらなくなってから2週間経った日の朝、由美子さんは覚悟を決め、夫にだけ行き先を告げて、車で1時間半ほどの実家へ向かいました。
インターホンを何度も鳴らします。しかし、応答はありません。耳を澄ませても、家の中から物音ひとつ聞こえてきません。郵便受けを覗くと、新聞やチラシが溢れかえっていました。
「お父さん! 由美子です! 開けて!」
ドアノブをガチャガチャと回し、扉を叩きながら叫びますが、やはり反応はありません。万が一の事態が頭をよぎり、血の気が引いていくのが分かりました。由美子さんは震える手でスマートフォンを取り出し、実家の管理をお願いしている不動産会社に事情を話して、緊急時の合鍵を要請しました。
駆け付けた担当者とともに、ついに玄関のドアが開かれます。その瞬間、鼻をつく異臭が廊下にまで流れ出してきました。そして、由美子さんがリビングの扉をこじ開けた先に広がっていたのは、まさに悲惨というほかない光景でした。
足の踏み場もないほど散乱したゴミの山。食べ終えた弁当の容器、汚れた衣類、空のペットボトルがうず高く積まれ、ハエが飛び交っています。そのゴミの山の中で、父の健一さんが倒れていました。目はうつろで、焦点がさだまりません。
「お父さん!しっかりして!」
由美子さんの呼びかけに、健一さんはかすかに目を開けましたが、言葉を発する力も残っていないようでした。すぐに救急車を呼び、健一さんは病院へと搬送されました。診断は、軽度の脱水症状と栄養失調。そして、医師から告げられたのが「セルフネグレクト(自己放任)」の可能性でした。
セルフネグレクトとは、自らの健康や安全を顧みず、生活環境や栄養状態が悪化しても、それを改善しようという意欲を失ってしまう状態のこと。誰かに虐待されているわけではなく、自ら生活を破綻させてしまうのです。これは認知症やうつ病などの精神疾患が引き金になることもあれば、健一さんのように、社会的孤立や大切な人を失った喪失感がきっかけとなることもあります。
内閣府『高齢社会白書』によると、東京23区内における一人暮らしで65歳以上の人の自宅での死亡者数増加の一途を辿り、2023年、4,957人と10年で1.7倍になりました。また「孤独死を身近に感じる」と回答した高齢者は48.7%と約半数を占めています。
幸い、健一さんは一命をとりとめました。しかし、由美子さんの心には、深い後悔と疑問が残りました。「絶対に来るな」という父の言葉の裏にあった、声なきSOSに、なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか。厳格で、常に完璧だった父が、ここまで追い詰められていたとは――。年を重ね、親子の立場が逆転していくなか、その距離感に戸惑うケースは少なくありません。親の老いを前に、親子関係の再構築が必要です。
[参考資料]
内閣府『令和7年版高齢社会白書』