
退職祝いの夜
Aさん(65歳)の退職祝いは、家族総出で準備されました。Aさんは40年間勤めた大手企業を定年退職し、これからは趣味や家族との時間を楽しみたいと考えていました。妻のBさん(62歳)をはじめ子供たちも集まり、Aさんの長年の努力を労うためのささやかなお祝いが開かれました。
テーブルには、Bさんが朝から手間をかけて準備した豪華な料理が並び、Aさんの好きなビールに鍋料理、子供たちが持ち寄ったワインが彩りを添えていました。Aさんは上機嫌で、これからの老後の計画について熱心に語り出します。
夫の希望と妻の沈黙
「退職金は3,000万円ある。まずは夫婦でヨーロッパ旅行だ。そのあとでゴルフクラブを新調して、庭にパター練習用の芝生を張るんだ!」Aさんは目を輝かせながら語りました。
一方、妻のBさんは控えめな笑顔を浮かべるものの、口を閉ざしていました。Bさんは、Aさんが退職後の生活について「夫婦で旅行に行く」「ゴルフや趣味を楽しむ」と語っていくなかで、自分の意見がまったく反映されていないことに気づきました。Bさんにとって、この計画はAさんの「ひとりよがり」に映っていたのです。Bさんは、自分が専業主婦として家庭を支えてきたあいだ、Aさんの仕事を最優先にしてきました。しかし、これからの老後は自分自身の時間を大切にし、趣味や友人との時間を楽しみたいと考えていたのです。
「私は子犬を飼いたいと思っているんだけど……どうかしら?」
「そんなことしたら旅行に行けなくなるだろう! それにせっかく庭を綺麗にしても、汚されたらたまったもんじゃない」
この発言が決定打となりました。Bさんは席を立ち、「少し外の空気を吸ってくる」と言い残してその場を離れました。家族は最初、Bさんが単にリフレッシュしに行っただけだと思っていましたが、数十分がすぎても戻ることはありません。時間が経つにつれて、家族はBさんの異変に気づき始めます。子供たちが電話をかけても応答がありません。Aさんは「そんなに怒ることか?」と軽い調子で言いましたが、子供たちは母の気持ちを察して不安に駆られました。
後日、Aさんのスマホに1通のLINEメッセージが入りました。そこにはこう書かれていました。
「長年うすうす感じていたことではありますが、あなたが楽しそうに老後の夢を語るのを見て、私の気持ちが無視されていることに気づきました。このままでは、私は私らしく生きることができないと感じたのです」