中学時代から短ラン、ドカン、リーゼント。治安の悪い街で育った筆者は、高校に入っても悪さばかりし、幾度も停学処分をくらいます。そんな筆者は、ひょんなことから17歳にして「マグロ漁船」に乗ることに……。菊地誠壱氏の著書『借金を返すためにマグロ漁船に乗っていました』(彩図社)より、筆者の実体験をみていきましょう。
マグロ漁船に乗ってくれ…ハンバーガーを買いに行くだけで絡まれる〈治安最悪〉の街。家族想いな“喧嘩自慢の17歳”が「マグロ漁船員」となった理由【実話】
“もう逃げられない”…船員たちと顔を合わせ、初めての仕事へ
初めての仕事は、マグロ漁船への餌積みです。その日港に呼ばれて向かうと、たかしおんちゃんはもう着いていました。
「おはよう」おんちゃんにそう挨拶した後、船員さんたちと顔合わせすることになりました。
「おはようございます」「おはよう!」
みんないかにも漁師といった感じの出で立ちです。
甲板長(こうはんちょう)は「ボースン」と呼ばれ、船の甲板(こうはん)の上でのさまざまなことを取り仕切るマネージャーのような役職です。船長は舵取りなどの船の操作全般を行う人で、船の中のナンバー2のポジションです。
この2人のことはよく覚えていますが、他の人は正直なところあまり印象に残っていません。
「おはよう! よろしくな!」
ボースンが大きな声で挨拶してきました。パンチパーマでいかつい顔をしていて体格のいい人だったので、直感的に逆らってはいけない人なんだと思いました。
「おはよう、よろしく」
次に船長が挨拶してくれました。地味で口数が少なく、渋い人という感じの漁師さんでした。
この日は餌積みといって、1か月分の餌となる冷凍のサバとアジをひたすら船に積み込む作業をしていました。結構な重労働でした。
そしてその後は仕込みといって、今度は自分の1か月分の荷物を船に積み込みました。仕事道具とか寝具とか、初めての航海に必要なものだけ船に積み込んだ記憶があります。カップラーメンとかタバコとかは冷凍庫にまとめて積み込みました。
喘息があるので今はもう何十年もタバコを吸っていませんが、当時は最低でも1日1箱吸っていましたし、タバコは大事なストレス発散でした。
そのうちビデオデッキとか小型テレビとかを持ち込むようになるのですが、このとき娯楽道具は何も用意していませんでした。他の人が持ち込んでいるのを見て真似をしたくなり、この次の航海あたりからビデオデッキを持っていくようになりました。
今回はテレビもラジオも本も何もない状態でした。まあ、マグロ漁船に乗るのに娯楽なんかあるわけないか。当時私はそう思っていました。船酔いに慣れ、仕事に慣れるまではそんなものはいらない、と思っていたのかもしれません。
このとき初めてマグロ漁船の船室を見たのですが、不安と恐怖でとても嫌な気持ちになったのを覚えています。まだ出船すらしていないのに、この中で生活すると思うと憂鬱でした。
餌積みも仕込みも終わったし、もう逃げられないんだ。そう思いながら出船の日を迎えました。
