視覚だけが肥大化した現代人

五感を刺激するということで考える必要があるのが、すでに述べましたが、現代は「視覚偏重」社会だということです。もともと現代人の脳が外界から受け取る情報のうち、八〇パーセント以上が視覚からくる情報だといわれています。実際、私たちの日常生活における行動は視覚にたよっています。暗闇でも行動できるネコなどとちがって、私たち人間は、真っ暗で何も見えないと家の中でさえ自由に動けないのです。


はじめて直立した私たちの祖先は、いざ、立ち上がってみると、大きく世界が変わりました。それまで目先のものを鼻でにおいをかぎ、舌でたしかめていたものが、視点が高くなったことで、遠近、濃淡、色調、動きなどのすべてを、遠感覚でとらえることができるようになりました。いきおい、視覚系は猛烈に進化しはじめました。そしてヒトは、いま私たちが暮らしている、高度に発達した文明にまでいきついたといえましょう。


しかし、それでも、ついこのまえまで、私たちは視覚以外の四感をかなり使ってきたはずです。なかでも嗅覚は幅をきかせていました。それが証拠に、においは人間の記憶に、大きく関わっているのです。「母親のにおい」という言葉があります。


久しぶりに帰郷して、昔のままの実家に足を踏み入れると、忘れていた子どものころの記憶がどっとよみがえってくるのも、昔のにおいが残っているからでしょう。肉まんのにおいをかぐと子ども時代を思い出すという人もいますが、こうした体験は多くの人にあると思います。嗅覚記憶は、視覚記憶を側面からサポートしているのです。


つまり、視覚以外の四感は、二本足で立ち上がって以後、どうしても視覚偏重になりがちな私たち人間に、嗅覚や味覚の記憶をよみがえらせては、脳がロボット化しないようにしてきたのです。ところがどうでしょう。現代文明では、本を読んだり、テレビ、ビデオを見たり、クルマの運転をしたり、パソコンやスマホを操作したりなど、ますます視覚情報が生活の大きな部分を占めるようになっています。


子どもたちを見てください。彼らの周囲には視覚メディアがはんらんしています。マンガ、アニメ、ファミコン、スマホ……と視覚情報があふれかえり、彼らを24時間捕らえて放しません。視覚情報だけで快楽するようになった子どもたちの脳の回路は、大人になってからも、洪水のごとく溢れる視覚攻勢にさらされています。


たとえば、たった一人の部屋で、アダルトビデオを見てマスターベーションする若者。相手のにおいも、やわらかい(あるいはたくましい)身体の感触も、肌ざわりもなく、舌で味わう感覚も、そしてペニスを挿入し、粘膜を通じて得る、あのすばらしい融合感もない、ヴァーチャル・セックス。視聴覚刺激だけでエクスタシーらしきものに達する「脳内射精」。そこから行き着くのは、セックスレス夫婦、いや、もはや男女が触れ合うことのない、セックスレス社会でしかないでしょう。