俳優の森山未來さんが主演し、藤竜也さんと親子役で初共演を果たした映画『大いなる不在』(近浦啓監督)が7月12日(金)に公開されます。日本公開に先んじて第48回トロント国際映画祭ワールドプレミアを飾り、第71回サン・セバスティアン国際映画祭では日本人で初めて藤さんが最優秀俳優賞を受賞。第67回サンフランシスコ国際映画祭では最高賞グローバル・ビジョンアワードを受賞するなど、国際的にも評価が高く、早くも話題になっています。森山さんと藤さんにお話を伺いました。
森山未來「『愛』についての物語…なのかもしれない」
――それぞれの役を演じて見えてきた“風景”のようなものはありますか?
森山:僕は、認知症の方とちゃんと関わったことがないので、いろいろと調べていく中で、一冊の本を読みました。小澤勲さんの『認知症とは何か』(岩波書店)という本なのですが、印象的なワードとして、「認知症の方と関わるためには俳優のまるで俳優のように、その認知症の方が作り出す世界、虚構の世界に寄り添うこと。これが肝要である」*というようなことが書いてあって、役柄的にドンピシャすぎて……。
卓は陽二の何が真実で何が嘘かも分からない世界に最初は翻弄されていきますが、(陽二の妻である)直美さんが残した手帳が卓にとっては台本のようになっていき、その手帳を手がかりとして、段々と陽二を理解していくーー。陽二の息子である卓として、そして俳優業を営んでいる者として、卓は陽二という人をどんなふうに受容し、寄り添っていくのかということが脚本を読んだ時点では想像できなかったので、そんなふうに着地できたのはよかったなと思いました。
――陽二という人間を演じて見えた風景について、藤さんはいかがですか?
藤:いや、もう人間ですよ。それは私の半年後かもしれないし……。映画というのは、“仕掛け”があるのですが、例えば「ここできっと観客は涙腺が緩むんじゃないか」とか「ここで笑うのではないか」というのが台本を読めばだいたい分かるんです。でも、この作品に関しては全く分からなかった。“伏線”や“仕掛”というものが何もない。それなのに、見終わった後に「あの魂の揺るぎは何だったのだろうか?」と思って不思議でしょうがなかったです。
僕は自分の映画はほとんど見ないのですが、今回は3回見たんです。そして毎回違う揺らぎ方、揺すられ方をされて、これは何だったのかはいまだによく分からないです。
森山:普段、僕は全く使わない言葉ですし、あまり言いたくもないのですが、なんというかこの作品は「愛」についての物語なのかなと……。そんな言葉がふっと出てきてしまう感じがあるんですよね。それが何なのか、あまり説明したくないのですが、思考だったり、論理だったり、それまで物理学者として生きてきたガチガチのロジック人間だった陽二が認知症によって全てを剥ぎ取られた後に、陽二という人間から出た慟哭というか、氷山の一角のようなものがパッと出たものだったんだろうなと。それが最初から最後まで通底して描かれているんだなと感じました。
藤:そうかもしれないね。「説明できないこの揺らされ方って何?」というのを味わってほしい。私も説明できないのですが、揺れるんです。