認知症や加齢に間違われやすく、放っておかれてしまうことの多い「老人性うつ病」。発症のきっかけのひとつとして、「喪失体験」が挙げられます。高齢者専門の精神科医である和田秀樹氏の著書『65歳からおとずれる 老人性うつの壁』(KADOKAWA)より、さまざまな事象によって引き起こされる「喪失体験」について、詳しく見ていきましょう。
うつ病を引き起こすきっかけにもなる「喪失体験」
高齢になるとうつ病とか、セロトニン不足で苦しむ人は意外に多く、各種住民調査では、人口の5%くらいがうつ病とされます。これも、歳を取るほどセロトニンの分泌が減ることが大きな原因だと私は考えています。というのも、若い人のうつ病の場合、脳内のセロトニンを増やす薬を使っても、あまり効かないことが多いのに、高齢者ではよく効くことが多いのです。
ただ、これから述べるような心理的要因も、うつ病になる契機としては重要です。つまり、もともとセロトニンが少ないことに加えて、ガクッとくるような体験をすると、それらを引き金にしてうつ病になってしまうのです。
このようなガクッとくる体験の中で、最もうつ病につながるとされているものが喪失体験です。親やきょうだい、配偶者、親友の死などをきっかけに、うつ病になる人は少なくありません。死別でなくても、会社を辞めて、職場やその人間関係を失ってしまったとか、子どもが巣立って、特に結婚して家からいなくなったなども、うつ病の契機になります。昔と比べて晩婚化が進み、30年とか40年一緒にいた娘や息子がいなくなる上に、自分も高齢になってセロトニンが減っている時期でもあるので、うつ病に陥りやすいのです。
高齢になると、この手の人間関係の喪失体験が増えるのは、確かです。私も父親が存命のときに「最近は、ハガキがくると思うと訃報ばかりだ」と嘆いていたのを覚えています。
母親業の喪失
意外に重大な喪失体験は、アイデンティティ(自分が自分であると感じられ、それが他者や社会から認められているという感覚のこと)の喪失です。女性が多く経験するのは「母親アイデンティティの喪失」です。
もちろん、子どもはそのまま存在しているので、母親は母親のままなのですが、子どもが、特に男の子が結婚すると配偶者(妻)に頼るようになり、母親の役割を失ってしまうことは珍しくありません。ストリーンという精神分析学者によると、奥さんに靴下まで洗ってもらうようになると、だんだんと奥さんを心理的に母親のように思うようになるとされます。
日本の場合、子どもができると妻のことをママと呼んだり、お母さんと呼んだりするのでなおのことです。妻が夫に小遣いをあげることも珍しくないので、さらに心理的に妻が母親化しやすいのです。逆に本当の母親にとっては、心理的に母親の座を追われる気分になります。