三年後もはみ出し「中宮大夫」

道長は、定子の事務方長官に就きながら、彼女の一世一代の儀式を欠席した。道隆に反発する意図があったと感じるのは、1000年後の私たちだけではない。日記を記した実資自身が、そう受け取っていた節がある。というのも、実資は『小右記』で道長を滅多に「中宮大夫」と呼ばないのである。

貴族の日記は、上級貴族のことは原則として肩書で呼ぶ。または肩書に本名を添えて呼ぶ。だが上級貴族はいくつもの肩書を持つ場合があり、そのうちどれで呼ぶかは日記を記す者の自由である。『小右記』は、道長が中宮大夫となっても彼をほとんど「中宮大夫」と呼ばず、以前と変わらず「右衛門督」と呼び続けている。

「中宮大夫」と呼ぶのは5年にわたった在任期間のうち四回きりで、最初の一回は道長が大夫になった時、最後の一回は長徳(ちょうとく)元(995)年、道隆が死を前に出家を遂げたことを、道長が定子の事務方の立場から実資に告げてきた時。それらの記事を除くと、実資はわずか二回しか道長を「中宮大夫」と記してはいない。そしてその二回が、いずれもきわめて意味深なのである。

ここでは、このうち一つ目を掲げよう。道長の中宮大夫就任から3年の時が流れた、正暦四(993)年。道隆邸で弓の遊びが行われたとの記事である。

昨日、摂政第(てい)に於(お)いて射有り。内大臣以下、公卿多く会す。前日の弓の負態(まけわざ)と云々(しかじか)、藤大納言〈朝光(あさてる)〉、銀の弦袋を以(もつ)て懸物(かけもの)と為(な)す。而(しか)るに主人、虎皮の尻鞘(しりざや)を以て相替へ懸くと云々。上下以て目すと云々。中宮大夫〈道長〉、中科(ちゆうか)。

(昨日、摂政・道隆様の邸宅で弓の試合があった。内大臣の道兼様以下、多くの公卿たちが参会した。前日の弓の試合に負けた罰ということで、大納言の藤原朝光が、銀の弦袋を今回の賞品に用立てた。ところが主人の摂政殿は、それに替えて虎皮の尻鞘を賞品にするという。これには皆が目を付けたとか。中宮大夫・道長が的の中心を射貫き、賞品を手にした)

(『小右記』正暦四年三月十三日)

道隆邸で弓の試合が行われた。大勢の公卿が集まる大掛かりな催しである。当初決まっていた賞品があったが、道隆はそれに替えて、虎皮の尻鞘(しりざや)を優勝賞品に立てた。虎の皮というからには舶来(はくらい)、派手好きな彼らしい大盤振る舞いだ。そしてそれを手中にしたのが、「中宮大夫」道長だった。

この頃、道長は権大納言に昇進していて、『小右記』は前後の記事では彼をその肩書で呼んでいる。だがここだけは「中宮大夫」である。道隆邸で行われた弓の儀だから、道長はその娘に仕える中宮大夫として参加したということか。しかしそれならば、彼は主催者側として配慮しなくてはならない立場にある。現代の接待ゴルフ同様、皆がときめいた豪華優勝賞品を、もてなす側が奪ってしまうのはマナー違反だ。

ところが道長はそうした。それも、「中科」つまり的の真ん中を射貫き、優勝したのだ。彼は「中宮大夫」なのに「中宮大夫」らしからぬ行動をとった。おそらく故意に、である。実資はそれをおもしろがり、あえてここでは「中宮大夫」の呼び名を使ったのだろう。先に意味深と言ったのは、そのためである。