「この矢よ、当たれ」

国史学者の倉本一宏(くらもとかずひろ)氏は、この実話から『大鏡』の次の逸話が作られたものと想像する。『大鏡』は弓の儀を、史実の翌年の正暦五(994)年八月以降の、道隆がわずか21歳の息子・伊周(これちか)を内大臣にひきあげ、道長は甥の下の官職に甘んじる屈辱を味わっていた時期に設定している。

逸話でも『小右記』の史実同様に道隆邸で弓の儀が行われるが、招かれてもいなかった道長がぶらりと現れるのは『大鏡』お得意の演出である。道隆は驚きながらも歓待し、道長に射させた。

すると、伊周に花を持たせる出来レースの予定が、矢数二本の差で伊周の負けとなってしまった。道隆も客たちも伊周を応援し、逆転を期して二本分の延長戦を行う次第となった。

やすからず思しなりて、「さらば、延べさせ給へ」と仰(おほ)せられて、また射させ給ふとて、仰せらるるやう、「道長が家より帝(みかど)・后(きさき)立ち給ふべきものならば、この矢当たれ」と仰せらるるに、同じものを中心(なから)には当たるものかは。

次に、帥殿(そちどの)射給ふに、いみじう臆(おく)し給ひて、御手もわななく故(け)にや、的(まと)のあたりにだに近く寄らず、無辺世界(むへんせかい)を射(い)給へるに、関白殿、色青くなりぬ。また、入道殿射給ふとて、「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ」と仰せらるるに、はじめの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させ給ひつ。

(道長殿はうんざりして「さらば、延長なされ」と仰せになり、再び的に向かって立つやおっしゃった。「道長の家から帝・后が立ち給う運命ならば、この矢当たれ」。すると当たるどころではない、的の中心を射貫いたではないか。

次に伊周殿が立たれたが、ひどく気圧されて手がぶるぶる震えていたためか、的から逸れてあらぬ所を射てしまったので、道隆殿は青くなった。次はまた道長殿の番だ。今度は「私が摂政・関白をする運命なら、この矢当たれ」と仰せになって射ると、初めの矢同様、的も破れんばかりに中心を射貫かれたのだった) (『大鏡』「道長」)

史実として、道長は道隆邸で空気を読まず、勝利を奪った。そこにヒントを得たのだろう、『大鏡』はこれを天道(てんとう)からの啓示という逸話に作り替えた。息子可愛さで負けを認めない卑怯な道隆。怒りをこらえ、逆にこれを機会として天に問いかける道長。天は答えた。彼の家から帝が生まれる。そして彼の娘は母后(ははぎさき)となる。そして道長自身は、摂政・関白になる。それは天の決定なのだと――。

これは史実ではない。だが史実に照らしても、少なくとも道長が道隆・定子の配下に甘んぜず、意識的にはみ出した行動をとっていたことが窺われる。そして『小右記』を見る限り、実資のような中立派は、道長のスタンスを認めつつ高みの見物を決め込んでいた。

山本 淳子

平安文学研究者