雌伏の始まり

正暦元(990)年は、兼家一家にとって大きな変化の年だった。大黒柱の兼家が病に倒れ、7月2日、ついに他界したからである。ゆっくり、しかし確実に悪化の一途を辿る持病の症状と闘いながら、兼家は様々な手を打っていた。

彼が数十年の歳月をかけて執念で手にした権力を、他の家に移すことなく次代に譲りたい。その相手は、長男の道隆(38)しかない。それを見越して、彼はこの前年、道隆を内大臣につけていた。これは常設の大臣職ではなく、上席の左右大臣を飛び越えて摂政・関白に就くことの可能な、臨時の職である。

だが、そもそも道隆はまだ30代という若さである。また天皇との関係も、兼家が一条天皇の外祖父(がいそふ)であることに比べ、道隆は外伯父(そとおじ)で一段遠い。権力は弱体化するのではないか。

案じた兼家と道隆は、かなり強引な策に出た。まだ幼い一条天皇の元服、道隆の娘・定子の入内、さらに立后である。そしてこの策は、道長の身にもじかに及んだ。定子の事務方筆頭である中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)に任じられ、道隆・定子の傘下に組み込まれることになったのである。

詳しく見ていこう。正暦元年正月5日、一条天皇は数え年11歳で元服した。だがこの時、彼は満年齢ではわずか九歳と半年の少年だった。体はまだ子供であったに違いない。

だが、道隆が天皇との間に兼家同様の太い絆を持つためには、定子を入内させて天皇の岳父となる必要があった。そのためには、天皇を成人としなくてはならなかったのである。

そして20日後の正月25日、道隆の長女・定子が入内した。彼女は14歳、天皇より三3歳年上だった。

内大臣殿の大姫君(おほひめぎみ)(うち)へ参らせ給ふ有様(ありさま)、いみじうののしらせ給へり。殿(との)の有様、北の方など宮仕(みやづかへ)にならひ給へれば、いたう奥深(おくぶか)なることをばいとわろきものに(おぼ)して、(いま)めかしう気近(けぢか)き御有様なり。

(内大臣道隆様のご長女・定子様が入内なさる時のご様子ときたら、大層な騒ぎだった。道隆様ご一家の姿勢として、正妻の貴子様などが女房(づと)めに慣れていらっしゃるので、控えめなのは全くよろしくないというお考えで、はやりのくだけたご様子である)

(『栄花物語』巻三)

女房は人前に出て能力を発揮し、自らの存在をはっきりと示さなくてはならない。高階貴子は掌侍としてそのように振る舞い、当時女性は敬遠しがちだった漢詩文においても、男性官人はだしの力を見せた。

またその力を見込まれて、道隆の正妻になった。彼女が自分の成功体験を子供たちの教育に注ぎ込むことは、当然である。それは彼女の使命でもあった。