「男は妻柄なり」

『栄花物語』は、道長の結婚が世に次のように受け止められたと記している。

二所(ふたところ)の殿ばらの御北(おんきた)(かた)たち、ことなる事なう思ひきこえたるに、この殿はいとどもの清くきららかにせさせ給へりと、殿人(とのびと)も何事につけても心ことに思ひきこえたり。

(ほか二人の御兄弟の御本妻(ごほんさい)たちについては大した家柄でもないと思っていたが、この道長殿は何だか大層すっきりとご立派に婿入りなさったものだと、実家の召使(めしつかい)たちも万事別格の認識を抱いたことだった)

(『栄花物語』巻三)

長兄・道隆の本妻は高階貴子(たかしなのきし)といい、一条天皇の父・円融天皇(959〜91)の時代に内裏で掌侍(ないしのじょう)を務めた女官、つまり女性国家公務員だった。掌侍とは百人以上にものぼる女官たちを統括する内侍司(ないしのつかさ)の管理職で、トップの尚侍(ないしのかみ)、次官の典侍(ないしのすけ)に次ぐNo.3である。天皇の傍に控え、儀式の重役をこなし、女官たちを率いて宮中の実務の中核を担った。

貴子は特に漢文に長け、『大鏡』は彼女を「まことしき文者(本物の漢詩人)」「少々の男にはまさりて(生半可な男よりは有能)」と評し、自作の漢詩文もあったとする(『大鏡』「道隆」)。彼女はいわゆる「バリバリのキャリアウーマン」だったのである。だが、当時の貴族社会の価値観においては、仕える身の女房はしょせん女房、上級貴族の箱入り娘に比べれば、品の劣る立場であることは口にするまでもなかった。

まして彼女の家は高階氏、たかだか受領(朝廷から派遣された中流貴族の地方官)階級に過ぎない。とはいえ、道隆が欲しかったのは〈高貴さ〉ではなく〈知性〉の方で、これは見事に当たり、母と同じく知性に秀でた長女の定子(ていし)はこの二年後の正暦(しょうりゃく)元(990)年、一条天皇(980〜1011)に入内(じゅだい)してその寵愛を独占することになる。

いっぽう、次兄・道兼の本妻は父・兼家の異母弟にあたる遠量(とおかず)の娘で、いとこ同士の結婚になる。ただ遠量は大蔵卿など凡庸な官職で、結局公卿にもなれなかった。

道兼は兼家の異母妹で自分の叔母にあたる繁子(はんし)を愛人とし、娘(尊子(そんし))もいた。だが、繁子が内裏の女官だったためか、道兼はこの親子に対しほとんどネグレクトの状態だったという(『栄花物語』巻三)。たとえ叔母でも女官は妻扱いしない点、彼は彼で妻の〈格〉にこだわったつもりなのかもしれない。