中宮大夫・道長

それだけではなかった。道隆は定子の立后の日取りを正暦元年10月5日とした。7月2日に兼家が亡くなってからほんの3カ月にしかならない。当日、新中宮・定子のために設けられた役所「中宮職(ちゅうぐうしき)」の人事を聞き、実資は日記に記した。

「長官の『大夫』は中納言・道長、長官補佐の『権大夫(ごんのだいぶ)』は道綱。どちらも喪中ではないか」(『小右記』同年10月5日)。彼は強い違和感を覚えたのだった。

『栄花物語』の記し方は、さらに際立っている。立后の日をまだ兼家が病中だった6月1日とし、「こんな折でなくても」と世人が非難したとするのである。おそらく事実誤認ではなく、道隆政権の不適切さを過大に描くため、ひいては次の道長の世の正しさを強調するための、意図的な改ざんだろう。道長の栄華を記すという目的のもとには、大胆なフェイクもお構いなしというのが『栄花物語』の姿勢なのである。

さらに『栄花物語』は、中宮大夫に任ぜられた道長の思いに踏み込む。

中宮大夫には、右衛門督殿(うゑもんのかみどの)をなし聞こえさせ給へれど、こはなぞ、あなすさまじと思(おぼ)いて、参りにだに参りつき給はぬほどの御心ざまも猛(たけ)しかし。

(中宮大夫には、右衛門督(うえもんのかみ)・道長殿を就かせなさった。だが道長殿は「これは何だ、全く心外だ」とお思いになって、役所に寄り付くことすらなさらなかったとは、そのご気性の勇ましいこと)

(『栄花物語』巻三)

新中宮・定子のために設けられた中宮職の長官に、定子の叔父であり摂政・道隆の末弟である道長を就け、定子に仕えさせる。道隆はこの人事を、道長を抱き込む作戦として思いついたのかもしれない。

最近は源氏の左大臣の後援などを得て粋がっているようだが、まだ年若である。父・兼家も亡くなったばかりだし、ここは長兄の自分が目をかけてやろうじゃないか、と。道隆にとって道長はその程度の存在だったのではないか。だが、道長は反発した。

そしてこの点においては、『栄花物語』の書き方はフェイクではない。実資の『小右記』がそれを裏付けている。定子の立后当日、兼家の遺した東三条院でにぎにぎしく行われた儀式について、実資は次のように記している。

大夫、重服(ぢゆうぶく)に依(よ)り、見えず。

(中宮大夫は、喪中なので、列席しなかった) (『小右記』同日)

中宮としての門出という定子にとって最も晴れがましい日、彼女の側近になることを命じられた道長は、この人事を吞んだ。だが父の喪中ということを理由に、姿を見せなかった。道隆への異議申し立てと受け取られても仕方がない。

山本 淳子

平安文学研究者