一条天皇の寵妃となった定子

こうして、教養のみならず華やかさにおいてもお茶目さにおいても、きわめて女房に近い価値観と行動様式を持った妃が誕生した。知性にあふれつつ、親しみやすく、一緒にいて楽しい。定子は自信に満ち、そのオーラは内気な少年だった一条天皇の心をわしづかみにした。一条天皇のまさに寵妃となったのである。

5月5日に関白となった兼家は、その3日後に出家して政界を引退、次いで道隆が関白に就任した。「摂政」と「関白」はかなり異なる。摂政は天皇が元服前や病気で政務に当たれない時に、天皇代行として置かれ、権力をほぼ独占する役職。いっぽう関白は成人した天皇のもとに、その助言役として置かれる役職である。

今回の場合、一条天皇は元服して大人になっているのだから、道隆が関白に就任するのは当然だった。ところが彼はひと月も経たぬ5月26日、摂政に転じた。おそらく11歳の天皇は、やはり摂政が必要なほど幼かった。加えて道隆に、自ら全権を掌握したい欲望があったのだろう。

本来なら、天皇の元服と定子の入内、道隆の摂関就任は、まず兼家から道隆への摂政移譲、天皇の成長を待ち元服、次いで定子の入内という順序で、数年の時間をかけて行われるべきことだった。にもかかわらず、兼家の病の進行という都合、道隆の権力欲という我意によって、彼らはことを急いだ。かなり強引で恣意的であったと言わざるを得ない。

7月2日、兼家は亡くなった。享年62。その死を受けて、道隆一家「中関白家(なかのかんぱくけ)」の短くも絢爛たる栄華が始まった。次弟の道兼も、また末弟の道長も、それぞれの思惑を胸に抱きつつ、雌伏の時を過ごすこととなった。

山本 淳子

平安文学研究者