吉高由里子さんが主演する大河ドラマ『光る君へ』(NHK)が放送中です。物語は、吉高さん演じる、のちの紫式部“まひろ”と柄本佑さん演じる藤原道長の間の特別な絆を軸に進んでいきます。道長は「強運」を揶揄されることも多いのですが、一家の末っ子である道長は本当に運だけで最高権力者の座に上り詰めたのでしょうか。本稿では、平安文学研究者の山本淳子氏による著書『道長ものがたり』(朝日新聞出版)から一部抜粋し、道長が持つ「強運」の正体に迫ります。
「婚活」で人生を切り開いた藤原道長…後年、息子・頼通に伝えた言葉と藤原3兄弟がそれぞれの“妻”に求めたモノ
「結婚」ひとつで塗り替えられた道長への評価
実際、妻の格ということでいえば、『大鏡』の夕占のエピソードで触れた、道隆・道兼・道長三兄弟を産んだ母その人が受領階級出身である。兼家は、妻の血統に頼らぬ実力主義の人だった。
彼は道長らの母・藤原仲正女(時姫)を正妻扱いし、道綱の母・藤原倫寧女(『蜻蛉日記』の作者)を次妻扱いした。どちらの父も摂津守や陸奥守など実力派の実務官僚だが、受領国司で地位は高くない。兼家には参議・源兼忠女という悪くない血統の恋人もいて一女を生していたが、彼女がなぜか娘ともども行方知れずになったのに、血眼で捜すふうでもなかった(『蜻蛉日記』下巻)。
また村上天皇(926〜67)の皇女・保子内親王といった高貴な妻もいたが、やがて関係が途絶え、内親王は嘆きつつ亡くなったという(『栄花物語』巻三)。かと思えば、近江という名で伯父・実頼に仕えていた召人(性関係付きの女房)を伯父の死後にもらい受け、生まれた綏子を春宮・居貞親王に嫁がせた(『蜻蛉日記』中巻・『栄花物語』巻三)。
結局兼家にとっては、妻の家柄など考慮の外だったとしか思えない。つまり兼家の家において、血統のよい家に婿取りされて自分の〈格〉を上げようという考えを持ったのは、末子の道長が初めてなのだった。
なお、『栄花物語』は道長を「ご立派に婿入りなさったものだ」と見直したのが、「殿人」つまり道長の実家・兼家宅に勤める召使たちだったと言う。召使たちは平安時代の階級社会においては下層に属するが、決して無視することのできない存在だった。何しろ、圧倒的に数が多い。
平安京の人口は十数万人、うち朝廷から五位以上の位を賜っている貴族たちと言えば、家族も含めて千人かそこら(朧谷寿「王朝貴族と源氏物語」)に過ぎない。しかし召使たちは女房や臨時雇いも含めれば一家に数百人、平安京全体では数万人に及ぶ大集団である。
しかも横のつながりがあって、同業者同士や近隣のネットワーク内で日常的に噂を流し合っていた。そんななかで、道長を身近に知る実家の召使たちが彼を見る目を変えたならば、その情報は早晩、ほかの貴族の召使にも内裏の下層官人たちにも及ぶ。召使には女房や現代の運転手にあたる牛童など、主人の身近で働く者もいて、彼らを通じて情報は上級貴族にも及ぶ。
「兼家様の御子ではあるものの、ただの末っ子の坊ちゃんに過ぎない」というそれまでの道長像は、結婚ということ一つで塗り替えられていった。
「強運」の背景にあった道長の入念な“下準備”
道長は強運の人で、そのめぐりあわせは「棚から牡丹餅」と揶揄されることも多い。だが落ちてきた「牡丹餅」を受け止める準備ができていないと、幸運はつかめない。彼の準備の最たるものは、結婚だった。道長は十分意図してそれを行ったし、結果として結婚が自分の人生を切り拓いたことを、はっきりと自覚していた。
彼が後年、息子の頼通の結婚に際して「男は妻柄なり。いとやむごとなき辺りに参りぬべきなめり(男は妻の素性次第だ。高貴な家に婿取りされるのが良かろう)」(『栄花物語』巻八)と助言したことは、よく知られている。
結婚翌年の永延二(988)年、倫子は長女の彰子を産んだ。結婚が前年12月であったことを考えると、ハネムーンベイビーに近い。25歳の倫子は、最速で頂点への道を歩みだした。そこには強運の助けもあろうが、彼女自身の意志が大きく働いていたに違いない。
山本 淳子
平安文学研究者