20世紀前半、パリ不戦条約が締結されるなど国際社会で広まりつつあった国際協調の機運が、ニューヨーク株式市場の暴落によって失われました。その流れのなかで台頭することになるヒトラーと、それを許してしまった英仏、中国への攻勢を続ける日本の動向を、立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より解説します。
歴史は変わっていた?…ヒトラーの独裁体制開始→ドイツの強国化を連合王国・フランスが見逃してしまった「残念すぎる事情」【世界史】
張学良が西安事件で見せた胆力
中国では、蔣介石の国民政府が共産党の打倒に乗り出し、攻撃していました。共産党は、大長征で逃げ回ります。逃げ回る途中でリーダーになったのが、毛沢東です。
そして1936年、西安事件が起きます。張学良という人がいましたね。若いときはアヘンを吸って遊んでいるプレイボーイでしたが、実は根性があります。お父さんが殺されると、蔣介石の国民党と結んで日本に抵抗を始めたのでしたね。
この張学良が西安で、上司の蔣介石を監禁して、こう迫ります。「今、日本が中国に攻めてきているのに、共産党と喧嘩している場合か。一致団結して日本を倒すのが先だろ」と。
毛沢東は、周恩来を西安に送り込みました。西安で、周恩来と蔣介石、張学良が話しあい、蔣介石は解放され、国民政府と共産党が協力して、日本に対抗しようということになりました。
けれど、蔣介石はものすごく執念深い人で、自分を監禁した張学良を許さず、その後、長く拘束しました。第2次世界大戦後に台湾に逃げたときも、蔣介石は張学良を連れていき、拘束を解きませんでした。解放されたときには晩年を迎えていました。100歳まで生きて、回顧録を残しています。めちゃ立派な人です。
「国民政府を相手にせず」で、日本は交渉のカードを失った
1937年、盧溝橋事件が起きて、日中戦争が始まります。
首相の近衛文麿は翌年、「爾後、国民政府を相手にせず」という声明を出します。おかしいですよね。戦争している相手を「相手にしない」とは、どうやって戦争を終わらせるのかという話です。日露戦争を始めるときは伊藤博文が終わらせ方まで考えていました。それに比べると、いかに国の指導者の能力が落ちていたかということです。
相手にしないということは、交渉するという選択肢を自ら捨てることです。交渉しない以上、中国全土を攻め落とさない限り戦争は終わりません。泥沼への突入です。
出口治明
立命館アジア太平洋大学(APU)
名誉教授・学長特命補佐