第1次世界大戦は、工業生産力の高いアメリカの参戦と、スペイン風邪の流行により終結しました。結ばれた講和条約の内容はどのようなものだったのでしょうか。終結後の各国の動きを見ていきましょう。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より解説します。
アメリカ参戦で工業生産力の拮抗が崩れる
1916年の年末、ドイツが「もうしんどい。講和したい」と漏らしました。
それを受けて翌年、アメリカが「こんな戦争を続けていたらあかんで」と、仲介役を買って出ます。ところが、この申し出を英仏ロの連合国が蹴ります。「ここでドイツをやっつけないとえらいことになるで。やめられんで」と。
困ったドイツは、通商破壊作戦(無制限の潜水艦作戦)を始めて、連合国の船を徹底的に沈めます。アメリカはこれに怒って参戦します。
アメリカの参戦で、第1次世界大戦の帰趨は決しました。ドイツ組と大英帝国組の工業生産力は1:1で拮抗していましたね。それがアメリカの参戦で1:2強になるわけですから。
火事場泥棒を働いた日本は、中国の恨みを買う
日本はヨーロッパの戦争と何の関係もありませんが、日英同盟を名分に勝手に参戦します。そして中国にあるドイツの植民地を奪っていきます。列強はヨーロッパの戦争で死に物狂いなので、ちょっとくらいアジアで勝手をしてもいいだろうと考えたのです。1915年、「対華21ヵ条の要求」を出します。中国に、「日本のいうことを聞け。韓国のように」と要求したのです。要求した相手は袁世凱です。
袁世凱はひどい人ですが、さすがに中国人の魂は持っていました。火事場泥棒のような日本の要求に腹を立て、日本の要求を上手にプレス発表します。中国の人々は激怒します。21ヵ条の要求を承認した5月9日は「国恥記念日」とされ、反日感情が巻き起こります。
第1次世界大戦を講和に導いたパンデミック
1918年に入るとスペイン風邪がアメリカから広がり始めます。いわゆる、インフルエンザですね。恐ろしいパンデミックで、第1次世界大戦で死んだ人よりも多くの死者を出したとされます。そのために両軍ともやる気が失せてきます。
そんなとき、ドイツのキール軍港で水兵が反乱を起こします。これがきっかけとなって、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位して、ネーデルラントに亡命し、ドイツは休戦協定に署名します。第1次世界大戦が終結しました。
皇帝が逃げ出したドイツでは、ヴァイマール共和国が生まれ、民主的なヴァイマール憲法ができます。オーストリアの二重帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)は解体され、ハンガリーやチェコスロヴァキア、ユーゴスラビア王国が独立。小さくなったオーストリアは、オーストリア共和国になりました。