19世紀後半、ナポレオン3世率いるフランスは、普仏戦争をきっかけに帝政崩壊の道を歩みます。一方、フランスの孤立化を図るドイツ帝国は、同じくフランスと対立するオーストリアやイタリアと手を組み、同盟を結びます。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、この時期のヨーロッパの覇権争いについて、詳しく見ていきましょう。
宿敵フランスに戦争で圧勝し、ドイツ帝国に多大な貢献を果たした“天才”宰相・ビスマルクだったが…“上司”である次の次の皇帝にあっけなくクビにされた、まさかの理由【世界史】
アメリカ市民戦争の間に、ナポレオン3世がメキシコ介入
市民戦争(南北戦争)が始まった1861年、ナポレオン3世がメキシコに介入します。メキシコでは、先住民出身のベニート・フアレスが中心となって、自由主義的な改革運動が盛んになっていました。ナポレオン3世は、オーストリア皇弟のマクシミリアンをメキシコ皇帝に即位させます。
しかし、1865年に市民戦争が終わると、アメリカとことを構えては危険と判断したナポレオン3世は、メキシコ撤兵を決意します。マクシミリアンは1867年、フアレス率いる軍に銃殺されました。
ドイツ統一を目指すビスマルク、イタリアにならって密約を結ぶ
プロイセンは、ドイツの統一を目指していました。それにはオーストリアと戦わなくてはなりません。プロイセンの宰相ビスマルクは、ナポレオン3世が、イタリア統一を目指すカヴールと密約を結んだことを知っていました。
だから、ナポレオン3世と密談して、「こっちにも口を挟まんといてね」という約束を取り付けてから、オーストリアと戦争を始めました。プロイセンはオーストリアをぼこぼこにしてしまいます。
オーストリアはドイツの領地を失い、ハンガリーが残されました。オーストリアはハンガリー政府を認める代わりに、国王はオーストリア皇帝が兼ねるという約束をします。こうして1867年、二重帝国のオーストリア=ハンガリー帝国が誕生しました。
電報を編集して、フランスを罠にはめたビスマルク
1869年にスエズ運河が開通した翌年、「エムス電報事件」が起きます。
ことの発端は、スペインで革命が起きて、国王が追放されたことです。スペインは共和政になりましたが、わずか1年で、やはり王政の方がいいとなってブルボン朝が復活します。
新しい国王が選ばれるまでには紆余曲折があり、候補としてプロイセンの王族の名前も挙がりました。隣のフランスにしてみたら、えらいことです。そんなことになったら、西も東もプロイセンの王族に挟まれてしまいます。ナポレオン3世は反対し、ヴィルヘルム1世も「そんなことはしない」と明言して、いったん騒ぎは収まります。
ところがフランス大使が、エムスという温泉に滞在していたヴィルヘルム1世のもとを訪ねて話を蒸し返します。「もう絶対に、スペインにちょっかいを出しませんね」と。ヴィルヘルム1世は怒ります。「俺は明言してるやないか。スペインに野望はあらへんでと。おまえ、失礼なやつやな」と。それでベルリンにいる宰相ビスマルクに電報を送ります。「ビスマルクや、フランスの大使がこんなことをしよったで。ほんまにしょうもない国やな」と。
ビスマルクはこの電報を巧みに編集してプレス発表します。「礼儀作法を知らないフランス人がプロイセン国王に無礼なことをして追い返され、尻尾を巻いて逃げていった」といった感じです。これにフランスの世論は激高し、何の準備もないのにプロイセンに戦争を仕掛けます。ビスマルクは用意周到にこれを待っていたわけです。
こうして1870年、普仏戦争が始まり、プロイセンが圧勝します。