ヒトラーのポーランド侵攻により始まった「第2次世界大戦」。世界一の経済大国・アメリカの介入で、早々に勝敗が見えていたこの戦争の終盤に、日本は真珠湾を攻撃し、「アジア・太平洋戦争」を開戦します。状況的に「不要」だったこの戦争を、日本が始めた要因とは? 立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より見ていきましょう。
「インドシナへの進駐」がアメリカの怒りを買い〈石油禁輸〉に…窮地に陥った日本が、アジア・太平洋戦争という「最も厳しい道」を選択せざるを得なかったワケ【世界史】
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ヴェルサイユ体制の「民族自決」原則を、ヒトラーは利用した
1938年3月、ドイツはオーストリアを併合します。ヒトラーは、さらにドイツ人が自治権を要求しているという理由で、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を領土として要求します。さらに、「領土要求はこれが最後だ」と弁明しました。
ヒトラーは巧妙に領土を広げてきました。その背後には、第1次世界大戦後のヴェルサイユ体制の原則である「民族自決」がありました。「なぜドイツだけが民族自決を許されないのか」というのが、ヒトラーの建前です。
これを受けて、同年9月、ミュンヘン会談が開かれます。仕切ったのは、大英帝国の首相チェンバレンです。チェンバレンが腰抜けだからヒトラーを助長したともいわれますが、英仏にはもともと、ヴェルサイユ体制でドイツだけに過酷な条件を押し付けた負い目がありました。だから、ここでドイツに民族自決を認めたら、いよいよイコールの立場になる。それでドイツの拡大は終わるだろうと思ったのでしょう。
実際、ミュンヘン会談の後、ロンドンに戻ったチェンバレンは「フェアな裁定で、ヨーロッパに平和をもたらした」という理由で国民の喝采を浴びています。しかし、ヒトラーはもっと悪質だったのです。
同年11月、「水晶の夜」と名付けられた、ユダヤ人の迫害が始まります。翌年(1939年)3月、ヒトラーはボヘミアとモラヴィアを保護領としますが、これは民族自決とは関係がありません。いよいよ大英帝国とフランスは「これはあかん」と気づきます。