20世紀前半、パリ不戦条約が締結されるなど国際社会で広まりつつあった国際協調の機運が、ニューヨーク株式市場の暴落によって失われました。その流れのなかで台頭することになるヒトラーと、それを許してしまった英仏、中国への攻勢を続ける日本の動向を、立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明の著書『一気読み世界史』(日経BP)より解説します。
歴史は変わっていた?…ヒトラーの独裁体制開始→ドイツの強国化を連合王国・フランスが見逃してしまった「残念すぎる事情」【世界史】
「7」と「6.975」の違いが許せない日本は、グランドデザインを見失う
日本は、国際協調の枠組みから自ら離脱していきます。
1930年に開かれたロンドン軍縮会議は、巡洋艦や駆逐艦といった「補助艦」を削減するため、各国の保有割合を決める会議でした。日本が要求したのは、対英米比で「10:7」で、最終的に「10:6.975」で妥結しました。限りなく「10:7」に近いですよね。首相の浜口雄幸が粘ったからです。
ところが、天皇陛下が「10:7」と決めたのに、「10:6.975」で妥協したのはけしからんという、めちゃくちゃな理由で、浜口は殺されてしまいます。そして1936年、日本は軍縮会議から離脱します。
なんと愚かなことでしょう。当時、アメリカのGDPは日本の3倍以上ありました。つまり、軍縮会議がなければアメリカは、日本の3倍以上の艦隊をつくれるわけです。アメリカは大西洋と太平洋に面していますから、艦隊が10あったとして、太平洋側の日本に向けられるのは半分の5です。
アメリカの6割の規模の艦隊があれば、日本の方が有利です。それなのに「10:7は絶対で6.975はけしからん」などといって交渉が決裂すれば、アメリカは日本の3倍くらいまでやすやすと艦隊を強化できるわけです。
明治維新のグランドデザインは、阿部正弘が開国に際して示した「開国・富国・強兵」です。この3大方針のうちの「開国」、すなわち国際協調を、日本は捨ててしまいました。
「大甘」のリットン報告書を拒否して、国際連盟離脱
張作霖を殺害した日本軍は、満洲でさらに柳条湖事件を起こします。1932年には、清朝最後の皇帝の溥儀を祭り上げ、満洲国の建国を宣言します。めちゃくちゃです。これは放っておけないということで、国際連盟がリットン調査団を満洲に派遣します。
リットン調査団は報告書を出しましたが、これが大甘でした。「満洲国の主権は中国にある」といいつつ、「日本の権益も尊重する」というのです。だから「非武装の自治政府をつくることを提案する」と。
満洲の主権が中国にあるのは当たり前の話です。では「日本の権益」とは何でしょう。勝手に軍隊を送り出して中国から奪い取ったものです。こんな大甘な報告書ですから、「はい、わかりました」と認めてしまえばよさそうなものです。こんな幸運を、日本は自ら蹴とばします。満洲国の承認にこだわって1933年、国際連盟から脱退します。
この年にアメリカで大統領に就任したのが、フランクリン・ルーズベルトです。ルーズベルトは、公共事業に投資するニューディール政策を進め、経済を立て直していきます。