瞬く間に成立したヒトラーの「第3帝国」

ドイツでは1932年7月、ナチスが第1党になりましたね。翌1933年1月、大統領ヒンデンブルクは、ナチスの党首ヒトラーを首相に指名します。ヴァイマール共和国の重鎮は、ヒトラーを操れると思っていたのです。なにしろ最初のヒトラー内閣では、閣僚が二十数人いるなかで、ナチスからの入閣はわずか3人でした。

同年2月、国会議事堂放火事件が起きます。ヒトラーは、これを「共産党の仕業だ」と喧伝すると、3月には全権委任法を強引に成立させて、独裁体制を築いてしまいます。放火事件にはナチスが深く関与していたといわれます。

1934年、ヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼務し、「総統」と呼ばれるようになります。これを「第3帝国」と呼びます。神聖ローマ帝国、そしてビスマルクがつくったドイツ帝国に続く3番目の帝国という意味です。

日本に続いて、ヒトラーのドイツも、ムッソリーニのイタリアも国際連盟を脱退しました。国際協調の時代は終わりを迎えつつあります。

賠償金の負い目がある英仏が、ヒトラー台頭を見逃す

1935年、ナチス・ドイツは徴兵制を導入し、再軍備を始めます。1936年、ヒトラーはロカルノ条約を破棄して、非武装地域であった西のラインラントにドイツ軍を進駐させます。徴兵制を始めてわずか1年ですからドイツ軍はまだ弱い。

このときに英仏が毅然とした態度を取っていたら、その後の歴史は変わったかもしれません。けれど、英仏には、賠償金を吹っ掛けすぎたという負い目もあって、見逃してしまうのです。

政党政治を骨抜きにした、軍部「現役」武官制

ヒトラーがラインラントに進駐した1936年、日本では二・二六事件が起きて軍部独裁が進みます。さらに総理大臣の広田弘毅が、軍部大臣現役武官制を復活させます。もともとは山縣有朋が1900年につくった制度で、「陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人でないといけない」というものです。

これは山縣の悪知恵で、内閣ができても、軍部が大臣を出さなければ、内閣は倒れてしまいます。さすがに「こんな愚かな制度があるか」ということで、海軍出身の山本権兵衛が総理大臣のときに「現役」という条件を外し、OBでもいいことにしました。

これなら、内閣は軍部のいいなりにならなくて済みます。それを、軍部が怖くなった広田弘毅が元に戻してしまったのです。日本の政党政治は骨抜きになります。