2度の“窮地”を脱したロシアのピョートル1世の強運

18世紀に入っても、ヨーロッパでは火事場泥棒のような戦争が続きます。

17世紀末のヨーロッパでは、跡継ぎのいないスペインの王様のカルロス2世が死にそうになっていて、フランスのルイ14世が自分の孫をスペインの王様にしようと狙っていたのでしたね。そんなスペインにみんなが注目している間に、デンマークとポーランド、ロシアが、スウェーデンに戦争を仕掛けたのが、大北方戦争です。スウェーデンのカール12世という王様は即位したばかりの若造。ならば圧勝できると思って戦争を仕掛けましたが、カール12世は実は戦争の天才で、ロシアのピョートル1世は大敗してしまったのでしたね。

ところが、カール12世はやっぱり若かったのです。ロシアを負かした後、ポーランドに向かったのです。そのままモスクワに直行してロシアの息の根を止めてからポーランドにいけばよかったのではないかと考える人もいます。

けれど、そうしなかったカール12世は、ポーランドを属国として、自分のいうことをよく聞くスタニスワフ・レシチニスキを王様に選びます。けれど、あちこちで内戦が起きて、ポーランドの平定に5年も費やしてしまいました。ということは、ロシアのピョートル1世は5年間の時間を稼げたということです。その間にピョートル1世は、新都サンクトペテルブルクを建設してバルト海への出口を確保し、軍を立て直します。

カール12世は1707年、ついにロシア遠征に踏み切ります。ピョートル1世は軍を立て直して待ち構えています。1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデンは敗れて、カール12世はオスマン朝に亡命します。そして今度は、オスマン朝の客人としてロシアと戦うのです。それが1711年のプルート川の戦いで、ここではオスマン朝が圧勝しました。

プルート川の戦いで、ピョートル1世は捕虜になる寸前まで追い詰められます。このとき、ピョートル1世は、若き日に獲得した黒海の内海、アゾフ海を返す代わりに、命だけは助けてもらいます。オスマン朝のアフメト3世は、鷹揚な人で聞き入れてしまったのですね。ピョートル1世は強運でした。

イングランドは、ドイツから王様を“輸入”して育てた

イングランドでは、メアリー2世の妹のアンが即位しましたが、死産と流産を繰り返し、子どもが育ちません。ステュアート朝は断絶しそうです。

イングランドの議会にとって嫌なのは、ローマ教会の信者が王様になることです。だから法律をつくって、プロテスタントだったジェイムズ1世の外孫である、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーの子孫だけが、王位を継承できることにしました。

その後、ゾフィーの子孫は増え続けました。2022年に亡くなったエリザベス2世の王位継承権を持つ人は4,000人を優に超えたといいます。跡を継いだのはチャールズ3世ですが、もちろん男性でも女性でもいいんです。だからイングランドの王室はとても強靱です。これだけ跡取り候補がいたら断絶しませんよね。

1707年には、イングランドとスコットランドが合同し、連合王国が成立します。

1714年、女王アンが死去すると、ドイツのハノーファーからジョージ1世がきて、連合王国の王様になります。

ジョージ1世はドイツ人で、英語は一言も話せません。やっぱり、ハノーファーの方が居心地がいいので、頻繁にドイツに帰ります。

議会は喜びました。「これは都合がええ。政治に口出しせえへんで」と。こういう発想が平気でできるところがイングランドの強さです。ハノーファー朝は名前を変えながらも、今のウィンザー朝まで続いています。ハノーファー朝の王族は、ドイツ人同士で結婚を繰り返しました。だから今も王様はドイツ人のようなもので、王様を輸入してきたわけです。それをうまく育てて、国を治めてきたのです。