世界史について「断片的な知識ならあるけれど…」という人も多いことでしょう。しかし、世界史を学ぶ際には、「歴史を“ひとつながりの物語”と捉えて、一気通貫で理解するほうがいい」と、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長である出口治明氏は言います。出口氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、18世紀に世界各国で起こった領土の奪い合いや王位継承を軸に、世界の流れを把握し、理解を深めていきましょう。
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“戦争の天才”はスウェーデンを弱らせ、ロシア帝国が台頭する
スウェーデンのカール12世はオスマン朝から帰国すると、デンマークやノルウェーとの戦争を再開しますが、1718年、最前線で戦死します。いくら戦争の天才が率いていたとはいえ、大北方戦争の開戦から18年も戦争を続けていたわけです。スウェーデンは人口が少ない国ですから、みんながくたびれてしまいました。
1721年にはニスタット条約が結ばれ、大北方戦争は終わりますが、この条約は「スウェーデンの死亡診断書」といわれています。スウェーデンは、エストニアなどヨーロッパ大陸側に持っていた領土の多くを失い、ロシアはバルト海進出を果たします。ピョートル1世は国名をロシア帝国に昇格させて、ピョートル大帝と呼ばれるようになります。バルト海の覇権はロシアに移ります。
トルコ、インド、イランの“アジア3大帝国”が落日を迎える
17世紀のアジアは、4大帝国が最盛期を迎えた時代でした。4大帝国とは、中国の清とトルコのオスマン朝、インドのムガール朝、ペルシャ(イラン)のサファヴィー朝です。
18世紀には、これら4大帝国のうち、清を除く3大帝国が落日を迎えます。
オスマン朝のアフメト3世は、ピョートル大帝の命乞いを聞き入れた鷹揚な人でしたね。花が大好きで、ネーデルラントからチューリップを輸入して町中を飾りました。チューリップ時代と呼ばれ、衰退の冬を前にした秋日和のような楽しい時代です。
インドでは、ヒンドゥー教徒を迫害していたムガール朝のアウラングゼーブが1707年に死ぬと、それまでの無理がたたってガタガタになります。
サファヴィー朝は1722年、首都イスファハーンをアフガニスタンの勢力に占領されます。かつて「世界の半分」といわれるほど栄えた町を略奪され、実質的に滅亡します。
そこにナーディル・シャーという軍人が現れ、サファヴィー朝の皇帝を助けて、1729年にイスファハーンを奪還しました。サファヴィー朝は再建されました。でも、これは織田信長が足利義昭を助けて京都に入ったような話で、皇帝が自力で都を回復したわけではありません。信長はやがて義昭をケアするのが面倒になって放逐しました。それと同様にナーディルは7年後、サファヴィー朝を滅ぼしてアフシャール朝を開きます。
ナーディルは軍事の天才で、インドまで遠征してデリーを占領してしまいます。インドのムガール朝はペルシャ軍に都を奪われるほど衰退してしまったわけです。
「最後の征服者」と呼ばれたナーディルは1747年、暗殺されます。これを見ていたアフマド・シャー・ドゥッラーニーという武将がアフガニスタンで自立し、ドゥッラーニー朝をつくります。