世界史について「断片的な知識ならあるけれど…」という人も多いことでしょう。しかし、世界史を学ぶ際には、「歴史を“ひとつながりの物語”と捉えて、一気通貫で理解するほうがいい」と、立命館アジア太平洋大学(APU)前学長である出口治明氏は言います。出口氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、18世紀に世界各国で起こった領土の奪い合いや王位継承を軸に、世界の流れを把握し、理解を深めていきましょう。
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スペイン継承戦争から生まれた、プロイセン王国とサルデーニャ王国
1700年、スペインでカルロス2世が死にます。その王位を、フランスのルイ14世の孫であるフェリペ5世が相続すると当然、戦争が始まります。スペイン継承戦争です。
フェリペ5世の王位継承に反対する急先鋒は、イングランドとオーストリアのハプスブルク家で、戦いは12年も続きます。
オーストリアのハプスブルク家のレオポルト1世は、ベルリンにいたブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世に援軍を頼みますが、ベルリンとスペインは遠い。フリードリヒ1世は兵を出し渋ります。レオポルト1世は餌で釣ろうと「だったら、プロイセンの王様にしたるで」と約束しました。
フリードリヒ1世はそれまで「ブランデンブルク選帝侯」であり、「プロイセン公爵」でした。2つの肩書がありましたが、いずれも王号よりは下です。「王様」の肩書にフリードリヒ1世は飛びつき、さっさとプロイセンの首都ケーニヒスベルクに向かうと、戴冠します。
まあ、正確には「プロイセンの王」です。ブランデンブルクとプロイセンは遠く離れていて、間にポーランドがあります。堂々と「プロイセン国王」と名乗れるようになるのは、ポーランドから西プロイセンを獲得した1772年以降のことです。
スペイン継承戦争が終わり、1713年、ユトレヒト条約が結ばれました。フェリペ5世の王位継承は認められましたが、スペインは、オーストリアにベルギー、ミラノ、ナポリを渡しました。また、シチリアをサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世に渡します。ユトレヒト条約では、フランスも多くの植民地をイングランドに譲っています。
サヴォイア公はなかなか賢くて、その後、「シチリアをサルデーニャ島と交換してくれませんか」とオーストリアに申し入れます。シチリアの方が豊かで人口も多いですから、オーストリアは喜んで交換します。こうして1720年にサルデーニャ王国ができます。
サヴォイア公国はイタリア北西部に位置します。だから、サヴォイア公にしてみれば、サルデーニャの方が近いので統治がしやすい。長期的な視野に立って交換を申し入れたのです。このサルデーニャ王国がのちにイタリアを統一します。
フランス革命の伏線は、ルイ14世の借金と、長生きしたルイ15世
フランスではルイ15世が即位します。凡庸な君主で、やることといえばガールフレンドをつくるぐらいでしたが、60年ほど在位しました。先代のルイ14世が戦争をしまくってつくった借金はそのまま残っています。次のルイ16世はかわいそうです。これがフランス革命の伏線になります。