悲しみを晴らすために執筆する

出京から2年後、紫式部は藤原(のぶ)(たか)から手紙で求婚され、長徳四年(998)にいそいそと京に戻っている。もちろん宣孝とは在京中から知り合いだったのだろうが、なぜ夫婦になったのかはよくわかっていない。

宣孝は、筑前守や大宰少弐などをつとめる受領層で紫式部と家格は釣り合っていた。が、すでに40代半ばで、他の女性との間にできた20代半ばの息子もいた。ずいぶんと年の差婚であった。

結婚生活は長くは続かなかった。結婚の翌年、紫式部は娘の賢子(かたいこ)を産んだが、しばらくすると夫の宣孝が病死してしまい、結婚生活は3年弱で終止符を打ってしまったのだ。『紫式部日記』によれば、それから彼女は家の中で鬱々とした日々を送っていたようだ。現代語訳で紹介しよう。

「面白くもなんともない自分の家の庭をつくづく眺め入って自分の心は重い圧迫を感じた。宮仕に出る前の自分は淋しい徒然の多い日をここで送っていた。苦しい死別を経験した後の自分は、花の美しさも鳥の声も目や耳に入らないで、ただ春秋をそれと見せる空の雲、月、霜、雪などによって、ああこの時候になったかと知るだけであった。どこまでこの心持が続くのであろう、自分の行末はどうなるのであろうと思うとやるせない気にもなるのであった」

紫式部の気持ちがよくにじみ出ている訳文だが、じつはこれ、『みだれ髪』で有名な近代の歌人・与謝野晶子が訳した文章(与謝野晶子訳『与謝野晶子訳 紫式部日記・和泉式部日記』角川ソフィア文庫)なのだ。晶子は『紫式部日記』だけでなく『源氏物語』も全訳しており、紫式部の生き方に共感を覚え、作品を愛していたようだ。

通説では、この時期に紫式部は、悲しみや憂さを晴らすため、『源氏物語』を書き始めたとされる。そして先述のとおり、その内容がすばらしいという噂を聞きつけた藤原道長が、紫式部を招いて娘の彰子に仕えさせることにしたといわれている。それは、彼女が33、4歳の寛弘二、三年(1005、6)ごろのことらしい。