吉高由里子さんが紫式部を演じていることでも話題の大河ドラマ『光る君へ』(NHK)。藤原道長はじめ歴史の教科書に載っている貴族たちが次々に登場し、権謀術数渦巻く貴族政治を繰り広げます。ドラマでファーストサマーウイカさん演じる“ききょう”はのちの清少納言。快活な才女で“陽キャ”として描かれますが、その生涯は謎も多いとされています。本稿では、歴史研究家・歴史作家の河合敦氏による著書『平安の文豪』(ポプラ新書)から一部抜粋し、清少納言の人物像について解説します。
清少納言という人物
彼女(清少納言)は千年ぐらい前に活躍した女房だ。女房とは、朝廷や貴族に仕える比較的身分の高い女性のことで、清少納言の主人は、一条天皇の中宮(後に皇后)・定子である。
中宮付きの女房(宮の女房)は、その世話や話し相手をしたり、男性貴族との仲介や口入れ役をになったり、さらに教育係でもあったといわれている。
当時は、摂関政治の全盛期。前述のように、藤原(北家)一族の男たちは、姉妹や娘を天皇の妻にし、外戚(母方の親戚)として力をふるおうとした。そこで天皇に気に入ってもらえるよう、一族の女性に優秀な女房をつけ、教養を学ばせたのだ。
清少納言は、清原元輔の娘として生まれた。元輔は「受領」という現地に赴く国司の長官(守)として周防や肥後に赴任している。ちょっと語弊はあるが、わかりやすくいえば、今の都道府県知事のような仕事だ。
朝廷から地方へ派遣されて民政をになうが、とくに定められた税をきちんと国庫に納入するのが、受領に期待された最大の役目だった。余得は自分の懐に入れることができたので、中・下級貴族の職だが比較的裕福だったとされる。ただ、清原家は経済的に苦しかったという説もある。
清少納言の生年ははっきりしないが、康保三年(966年)説が有力である。
母の身分は低かったようで、一切記録には残っていない。一方父の元輔は下級貴族ながら、歌人として名がとどろいていた。清少納言の曾祖父・深養父も『古今和歌集』など勅撰集に多くの和歌が載録されている。
「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ」
という和歌は、藤原定家が撰したとされる「小倉百人一首」にも載録されているので、ご存じの方も多いだろう。
そんな深養父の孫である元輔は、祖父の才能を受け継いだのかもしれない。
彼も藤原公任の撰した三十六歌仙の一人とされ、歴代の勅撰集に百以上の歌が載録されている。さらに百人一首にも、
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」
という歌が選ばれている。