清少納言という人物

彼女(清少納言)は千年ぐらい前に活躍した女房だ。女房とは、朝廷や貴族に仕える比較的身分の高い女性のことで、清少納言の主人は、一条天皇の中宮(後に皇后)・定子である。

中宮付きの女房(宮の女房)は、その世話や話し相手をしたり、男性貴族との仲介や口入れ役をになったり、さらに教育係でもあったといわれている。

当時は、摂関政治の全盛期。前述のように、藤原(北家)一族の男たちは、姉妹や娘を天皇の妻にし、外戚(母方の親戚)として力をふるおうとした。そこで天皇に気に入ってもらえるよう、一族の女性に優秀な女房をつけ、教養を学ばせたのだ。

清少納言は、清原元輔の娘として生まれた。元輔は「受領」という現地に赴く国司の長官(守)として周防や肥後に赴任している。ちょっと語弊はあるが、わかりやすくいえば、今の都道府県知事のような仕事だ。

朝廷から地方へ派遣されて民政をになうが、とくに定められた税をきちんと国庫に納入するのが、受領に期待された最大の役目だった。余得は自分の懐に入れることができたので、中・下級貴族の職だが比較的裕福だったとされる。ただ、清原家は経済的に苦しかったという説もある。

清少納言の生年ははっきりしないが、康保三年(966年)説が有力である。

母の身分は低かったようで、一切記録には残っていない。一方父の元輔は下級貴族ながら、歌人として名がとどろいていた。清少納言の曾祖父・深養父も『古今和歌集』など勅撰集に多くの和歌が載録されている。

「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ」

という和歌は、藤原定家が撰したとされる「小倉百人一首」にも載録されているので、ご存じの方も多いだろう。

そんな深養父の孫である元輔は、祖父の才能を受け継いだのかもしれない。

彼も藤原公任の撰した三十六歌仙の一人とされ、歴代の勅撰集に百以上の歌が載録されている。さらに百人一首にも、

「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」

という歌が選ばれている。