受け継がれた才能

紫式部は、藤原為時の娘として生まれた。母親は藤原為信の娘である。為時も為信も受領層で、現地に赴いて国司の長官をつとめる中・下級貴族の家柄であった。紫式部の確かな生年はわからないが、天延元年(973)前後というのが有力だ。

幼い頃に母を亡くし、尊敬していた姉も20代半ばに病死したとされる。つまり、紫式部は父子家庭で育ったわけだ。弟(兄説あり)には惟規がいる。為時は、跡継ぎである惟規に漢学を教えたが、側で聞いていた紫式部のほうがすらすらと覚えてしまうので、「この子が跡継ぎだったら」とたいへん残念がったという。

もともと紫式部の家柄は、父方も母方も公卿にのぼる家系だった。たとえば紫式部の父方の曾祖父である藤原定方は従二位・右大臣、同じく曾祖父の藤原兼輔は従三位・権中納言となっている。母方の曾祖父・藤原文範も従二位・中納言だった。しかし、祖父の代になると、受領層に落ちてしまうのである。

ちなみに家系をみると、紫式部の文学的な才能には血縁者からの影響も関係しているように思う。曾祖父の定方は和歌に秀で『古今和歌集』や『小倉百人一首』にもその歌が載録されているし、もう一人の曾祖父の兼輔に至っては三十六歌仙の一人である。

父方の祖父・雅正(兼輔の子)も有名な歌人として勅撰集にその和歌が載録されているし、父の為時は若い頃、文章生として菅原文時(道真の孫)に漢学を学び、漢詩の名人とされた。幼い頃からこうした文学・学問的な雰囲気の中で育ち、紫式部は自おのずと文才が育っていったのだろう。

さて、結婚が早かった当時にあって理由は不明だが、紫式部は20代になっても結婚せず、父の為時が長徳二年(996)に越前守として現地へ赴任したさいには同行している。

ただ、京が恋しかったようで、近くの日野山の杉に雪が深く積もっているのを目にし、

「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがえる」

と京の小塩山の松の雪を懐しんで詠んだ歌が『紫式部集』に載録されている。