清少納言が夫に「ワカメの切れ端」を包んで送ったワケ

あるとき清少納言が宮中を離れてしばらく里に引っ込んでいたことがある。このおり、藤原斉信が則光に彼女の居場所をしつこく尋ねてきた。

この斉信という人は、清少納言ととても親しい関係にあった。といってもプラトニックな関係であり、互いに教養の深さに惹かれあい、性別を超えて交際していたとされる。則光は斉信に仕えていたこともあり、たびたび彼から元妻の居場所を聞かれた。

そこでとうとう「斉信に教えてよいか」という手紙を清少納言に送ったのである。

対して清少納言は、ワカメの切れ端を包んで送りつけた。以前、則光がワカメをほおばって斉信への返事をごまかしたと聞いたので「今回も私の居場所は教えないでほしい」とユーモアを交えて伝えたつもりだった。

ところが則光は、「変なものを包んで送ってくるなよ。何かの間違いか」とまったく理解してくれない。そこで今度は、それを説明する歌を書いて差し出したら、「そんな歌なんか見ない」と腹を立てて逃げていってしまったという。

こんな文学的センスのない男だったので、清少納言は愛想を尽かしたのだろう。

とはいえ、離婚後も二人は仲良しだった。清少納言の出仕後、則光は宮中で清少納言を「妹」と呼び、周囲にその才女ぶりを自慢し、ときおり彼女を訪ねてきている。

清少納言も則光を「せうと(兄の意味)」と称していたようだ。

正暦四年(993)あたりに、独り身となった清少納言は宮仕えを始めた。時に28歳ぐらいである。ちょうど主人・藤原定子の実父である道隆が関白に就いた年であり、権力の頂点を極めたことで娘に優れた女房をつけようと、清少納言を含めて才女たちを増員したのかもしれない。

周知のように清少納言は、本名ではない。女房名といって、朝廷や貴人に仕えるときにつける仮の名だ。清少納言の「清」は父方の清原氏の一字をとったもの。少納言は朝廷の職名だ。

通常は父や夫の職にちなむことが多いのだが、彼女の周りには少納言の官職を持つ人はいないので、これに関しては、兄弟に少納言に任官した人物がいたのだなど、諸説がある。

江戸時代の書物で、「諾子」が本名だとする記録もあるが、信憑性に欠ける。残念ながら、彼女を含めて当時の女性名はほとんど記録に残っていないのだ。

河合 敦

歴史研究家/歴史作家