清少納言のユーモアセンスは父親譲り?

そんな歌人・元輔だが、賀茂祭の使いとして一条大路を馬に乗って通過中、馬がつまずいて転落してしまう。その拍子に冠がすっぽ抜け、はげ頭があらわになり、しかも夕日に照らされて輝いたのだ。当時、人前で冠を取るというのは、パンツを脱ぐのと同じくらい恥ずかしい行為だった。だからこれを見た人びとはゲラゲラ笑った。

すると元輔は、同じように冠が取れてしまった昔の事例をいくつもあげつつ人びとに説教を始めたという。あえて人びとを笑わせたのだろう。ユーモアのセンスがあり、なおかつ、瞬時に過去の事例をあげるほど教養が深く機知に富んでいたのだ。後述するが、この資質が清少納言に伝わったのは間違いないと思う。

清少納言には兄姉がおり、「確認出来るものは、雅楽頭為成・大宰少監致信・花山院殿上法師戒秀、藤原理能(『蜻蛉日記』の作者の兄にあたる)の妻の四名である」(岸上慎二著『人物叢書 新装版 清少納言』吉川弘文館)。また岸上氏は、清少納言は元輔のもっとも晩年の子供であるらしいとし、59歳の時の出生であると推測している(前掲書)。だとするときっと父に愛されて育ったに違いない。

結婚は16、17歳の頃といわれ、相手は1歳年上の橘則光(たちばなののりみつ)であった。則光は、花山天皇(後の法皇)の乳母子だった関係から院司(直属の職員)をつとめていたとされる。翌年、2人の間には息子(則長)が生まれている。さらに季通という次男が生まれたという説があるが、結婚生活のほうは10年ぐらいでピリオドを打った。離婚原因は、性格の不一致の可能性が高い気がする。

『今昔物語集』によれば、則光は兵の家に生まれたわけではないが、豪胆で体が強く、見目も良かった。夜中に盗賊3人に襲われたさい、これを斬り殺し、左衛門尉(さえもんのじょう)と検非違使(けびいし)に叙されている。左衛門尉とは宮廷の門を守る武人。検非違使は都の治安を守る、今でいう警察官である。

一方、清少納言は知的で漢籍(中国の学問)の教養が深く、頭の回転が速くて相手の問いかけにすぐにユーモアや気の利いた言葉を返し、その場にぴったりな見事な言葉を語ったり歌を詠み上げたりした。このように体育会系の則光と文化系の清少納言とでは、話が合わなかったかもしれない。