森鴎外が説く「今を生きる」ことを忘れた日本人の姿

アリの観察に夢中になっている子は、散歩そのものを思う存分楽しむことができている。それに対して、そんな子を急かす父親は、何か別の目的のために歩くことに馴染みすぎたため、散歩そのものを楽しむことを忘れてしまっている。

これでおわかりのように、退職後は、何からも追い立てられずに、「今」を存分に味わいながら大切に生きることが許されるのである。学校に入る前の幼児期以来、ほぼ60年ぶりに、地に足の着いた生活を楽しめるのである。

もはや時間に追われて暮らす必要などないのだ。時間とのつきあい方に関して頭を切り換えることができれば、これまで以上に豊かな時間を過ごすことができる。

時を忘れるような瞬間をもつことで、「今」を充実させることができるし、時間的展望をめぐる葛藤からも解放される。

時を忘れるような瞬間をもつこと自体が、悔いのない自分らしい過ごし方ができている証拠と言える。

文豪森鷗外は、日本人は「今を生きる」ということを知らないのではないかと、小説の主人公の日記の形をとって、つぎのように指摘している。

「いったい日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門をくぐってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり付くと、その職業をなし遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。現在は過去と未来との間に画した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。」

(森鷗外『青年』より)

榎本 博明

MP人間科学研究所

代表/心理学博士