自由にしていいと言われても、どう過ごしてよいかわからない

自由がほしいと言っていた人も、退職して自由になると、せっかく手に入れた自由をもてあまし、暇でしようがない、毎日をどう過ごしたらよいかわからないなどと言い出す。

強制されると抵抗を示す人も、自由にやるように言われると戸惑う。それはじつによくあることだ。

「言われた通りにやればいいんだ」などと言われるとモチベーションが下がってしまうと嘆く人に、「では、自分の思うように自由にやってくれればいい」と言うと、「いきなり自由にしろと言われても困る。どうすればいいのか教えてほしい」と言い出したりする。

それと同じで、やらなければならないこと、必要なことだけして暮らすなんて虚しいと言う人も、自由にしていいとなると、どうしたらよいのかわからなくなる。

とくに自分自身の欲求や気持ちを疎外して、組織の原理に則って行動するサラリーマン生活を長く続けてきた人は、自分自身の欲求や気持ちがつかめなくなっている。「自分が何をしたいのか、どんなふうに暮らしたいのかがわからない」「どうしたら自分が満足する生活になるのかわからない」というようなことになってしまう。

もっとも、職業生活の真っ只中で、そうした自分の欲求や気持ちを始終意識していたら仕事にならない。そういう自意識を遮断しないと有能な働き手でいられない。その意味でも、自分自身の欲求や気持ちを疎外するのは、組織に適応するための有効な戦略だったのである。

組織からあてがわれた役割に徹していれば、無事に職務を果たせるし、それに見合った報酬が与えられる。自分なりの達成感も得られる。

だが、「毎日毎日ノルマ達成に追い立てられる生活なんて虚しい」「これが自分が思い描いていた人生だっただろうか」「もっと自分が納得できる生き方があるのではないか」などと、日々の仕事生活に疑問を抱いたりしたら、職務に邁進することができなくなる。

ましてや、「うちの会社の商品は、ほんとうに人々の生活向上のためになっているのだろうか」「こんな営業活動をするよりも、もっと考えないといけないことがあるのではないか」などと考え込んでしまったら、組織にとって都合のいいコマとしての動きが鈍りかねない。

いわば組織への適応のために、ある面において思考停止に陥っていたのである。そんな状態が何十年も続いてきたわけだから、自分の欲求や気持ちがわからなくなっているのもやむを得ないことと言える。