これからは「今を生きる」ことができるようになる

そこで目を向けたいのが、退職後だからこそ手に入る大きな自由である。

これまでは日々ゆっくりと自分を振り返る間もなく、目の前の課題解決に向けて、あるいは課せられたノルマ達成に向けて、ひたすら走り続けてきた。そんな心の余裕のない生活から解放されるのである。

絶えず急かされている感じがあり、「今」をじっくり味わうことなく通り過ぎていくような毎日から解放されるのである。

定年退職というと、仕事を失う、職業上の役割を奪われるというように、なぜか否定的なイメージでとらえられがちである。でも、学生の頃、これから就職して何十年も働き続けなければならないと思うと憂鬱な気分になったりしなかっただろうか。そこまでではなかったという人も、自由を謳歌する学生時代が終わってしまうことに一抹の淋しさを感じなかっただろうか。

私たちは変化を恐れる。どんなに充実した生活をしている人であっても、惰性で動いている部分はあるものだ。そのため職業生活が終わりを告げる際には、これまで惰性で動いていた部分が失われ、生活のすべての部分を自分で組み立てていかなければならない。それには気力が必要だ。心のエネルギーを注入する必要がある。これまでのやり方を続けるわけにはいかない。それが不安をもたらし、ストレスになる。

私たちは、小学校に入学以来、時間割に縛られる生活が続き、就職してからは日々職務に縛られ、常にすべきことに向けて駆り立てられるような毎日を送ってきた。

それが当たり前だったため、すべきことが与えられ、それに向けて絶えず駆り立てられる生活にすっかり馴染んでしまった。

だからそんな生活が終わることに大きな喪失感を抱き、大いに不安になる。でも、よく考えてみれば、時間割やノルマに縛られない生活こそ、ほんとうに自分らしい生活と言えるのではないだろうか。そんな生活がようやく手に入るのである。

幼い子を連れてハイキングに出かける父親が、家から駅に向かう道で、トンボや蝶が飛んでいるのを見て追いかけたりする子に、

「電車に乗り遅れるから、そんなもの追いかけないで速く歩きなさい」

と急かす。この場合は、電車に乗って郊外にハイキングに出かけるという目的のために駅までの道を急いでいるので、急かすのもやむを得ないだろう。

だが、やはり幼い子を散歩に連れ出した父親が、アリが自分の身体より大きい虫の死骸を必死になって運んでいるのをしゃがんで眺めている子に、

「いつまで見てるんだ。もう行こう」

などと急かす。散歩というのは、何か目的があって歩いているのではなく、散歩自体を楽しむものだろう。この場合、急かす父親と興味のままに漂う子と、どちらが散歩を楽しんでいるだろうか。どちらが豊かな時間を過ごしているだろうか。