退屈な時間も人間らしさを取り戻すのに大切

退職後はやることがなく暇になるだろうと、暇になることを恐れる定年前の人たちが少なくないようだが、暇の効用に目を向けることが大切だ。忙しい働き盛りの頃は「暇がほしい」と切実に思うこともあったのではないか。ようやく暇になるのだから、勤勉な自分のイメージは脱ぎ捨てて、後ろめたさなしに堂々と暇を楽しめばよい。

暇すぎると当然ながら退屈になる。退屈するのは苦痛かもしれないが、忙しい日々を長らく経験してきたのだから、一度極度の退屈を経験するのもよいかもしれない。

私たちは、普段から外的刺激に反応するスタイルに馴染みすぎているのではないだろうか。スマートフォンやパソコンを媒介とした刺激を遮断されると、すぐに手持ち無沙汰になる。でも、情報過多によるストレスやSNS疲れを感じている人も多いうえに、何よりも考える時間が奪われている。

スマートフォンがなかった時代には、電車の中では本や新聞を読む一部の人以外は何もすることがなく、どうにも手持ち無沙汰なものだった。考えごとをするか、ひたすらボーッとして過ごすしかなかった。とくに思索に耽るタイプでなくても、そうしていると気になることがフッと浮かんできて、あれこれ思いめぐらせたものだった。

過去の懐かしい出来事や悔やまれる出来事を思い出し、そのときの気持ちを反芻することもあっただろう。今の生活に物足りなさを感じ、いつまでこんな生活が続くのだろうと思ったり、これからはこんなふうにしようと心に誓ったり、この先のことを考えて不安になったりすることもあっただろうし、ワクワクすることもあっただろう。

何もすることがない退屈な時間は、想像力が飛翔したり、思考が熟成したりする貴重な時間でもあったのだ。退屈について考察している西洋古典学者のトゥーヒーは、つぎのような示唆に富む指摘をしている。

「退屈は、知的な面で陳腐になってしまった視点や概念への不満を育てるものであるから、創造性を促進するものでもある。受容されているものを疑問に付し、変化を求めるよう、思想家や芸術家を駆り立てるのだ。」(トゥーヒー著篠儀直子訳『退屈─息もつかせぬその歴史』青土社)

近頃は、退屈しないように、あらゆる刺激が充満する環境が与えられているが、それでは人々の心はますます受け身になってしまう。

自分の思うように動くため、ときに危なっかしくも見えてしまう幼児期のような自発的な動きを取り戻すために、あえて刺激を断ち、退屈で仕方がないといった状況に身を置いてみるのもよいだろう。そんな状況にどっぷり浸かることで、自分自身の内側から何かが込み上げてくるようになる。それが、与えられた刺激に反応するといった受け身な生活から、主体的で創造的な生活へと転換するきっかけを与えてくれるはずだ。

やるべきことが詰まっている時間には、想像力が入り込む余地がなく、創造的な生活を生み出すことがしにくい。何もすることがないからこそ、その空白の時間を埋めるべく想像力が働き出し、創造的な生活への歩みが始まるのである。