初代「ミスター・タイガース」が生み出したもの

猛虎の強打者を語るとき、藤村富美男さんをまずは語らなければならないだろう。藤村さんは、初代「ミスター・タイガース」と呼ばれるにふさわしい素晴らしい記録の数々を残している。長尺バットで知られる藤村さんだが、今でいう投手と打者の二刀流の選手だったのだ。

1936年に開幕したプロ野球リーグ(日本職業野球連盟)。4月29日のタイガース最初の公式戦となった名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板し、1安打完封し勝利投手に輝いた。また、7月15日の東京巨人軍との試合ではリリーフ投手として勝利投手となった。また、内野手としても出場し、2本の本塁打を記録した。

しかし、その野球人生は順風満帆とはいえなかった。1939〜42年まで兵役に就き、野球のキャリアが空白となる。しかし戦地から帰還すると、戦後の大阪に颯爽とヒーローとして再登場した。

1946年にリーグ戦が再開すると監督を兼任しつつ、5番打者として打率3割2分3厘を記録する傍、戦後で投手陣のコマ不足もあり、再びマウンドに上がった。試合中に4球で投手が自滅しそうになると、敗戦が濃厚な試合でも、守備についていたサードから投球練習などのウォーミングアップをすることなくリリーフとしてマウンドを踏んだ。

1946年、13勝2敗、リリーフだけなら8勝0敗。1947年以降は、監督は辞して、選手に集中し、不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を牽引した。

野手に専念してから、最初は2番などを打つ器用なバッターだったが、やがてホームランを量産する4番打者へと変貌を遂げたという。当時は地方遠征などで試合前のファンサービスとしてホームラン競争が頻繁に行われていたようで、そこで飛ばすコツを身につけたらしい。

優勝した1947年からはダイナマイト打線と称された強打線の4番に座り、その年は打点王を獲得している。本塁打王が3度に打点王が5度。1950年には、セ・リーグ最初の首位打者を獲得した。191安打は、2010年にマット・マートンに破られるまで60年間、阪神の球団記録だった。この年に記録された146打点も、2005年に今岡誠の147打点に抜かれるまで球団記録として残っていた。

打点王の原動力となったもの

1948年からは通常の選手よりも長い37〜38インチ(約94センチ〜約96.5センチ)の長尺バットで、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と共に本塁打を量産した。私が使っていたバットが34インチだったことからも、その長さがわかるだろう。

川上、大下の人気に対し、阪神タイガースも「なんとかせんといかん」と思い立ち、つくったこのバットは「物干し竿」と呼ばれ、3年連続打点王の原動力となった。1948年10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録。さらにこの年は、日本記録(当時)となる572打数で64長打のシーズン記録を樹立した。

藤村さんの大活躍により、入場チケットを求めて多くのファンが甲子園球場に押し寄せた。プロ野球の爆発的な人気に火をつけたのだ。

1949年にはチームが8チーム中6位だったにもかかわらず、MVPを獲得。優勝した巨人の選手ではなく、下位チームからMVPが出たことは、いかに藤村さんが活躍したかを物語っている。今でいえば、所属するロサンゼルス・エンゼルスは地区4位と低迷したものの2021年にアメリカン・リーグのMVPに選出された大谷翔平選手のようなものだろう。

長嶋茂雄さんの「藤村さんのプロらしい派手なプレーに憧れていた」という話を聞いたことがある。猛虎打線の野性味の源流は藤村さんにあることは間違いない。

いつの時代も、他と異なることにチャレンジする人間だけが、大観衆の喝采を浴びる本物のスター選手になりうるのだ。