10年間におよぶ壮絶な介護
ここまで私達を育ててくれた母のことを、やっと死んでくれた……そう思ってしまったんです。重々しく口を開いたのは55歳のAさん。お母様の介護が始まったのはおよそ10年前でした。
私はこの地に生まれ育ち、これまで母と一緒に暮らしてきました。母は2人姉妹の私たちがまだ小さいころに父と離婚し、女手ひとつで育ててくれました。幼心ながらに、仕事をしながら私たちの世話をしてくれる母を尊敬していましたし、大好きでした。
妹はずいぶん前に結婚し家を出ています。私は地元で自分の人生を歩んでいこうと決めましたので、母と一緒に今後もずっと穏やかに仲良く暮らしていくつもりでした。
母は私が小さいときから気が強く、思ったことをしっかり口にするタイプの人でした。厳しく躾けられたこともあり、時には大きな言い合いをすることもありましたが、ひとり親で苦労も多かったと思いますが、私達姉妹を育ててくれたことに、本当に感謝しています。
妹が子供を産み、初めて家に連れてきたときに、初めて母の涙を見ました。それくらい、人に弱さを見せない人だったんです。「孫の顔も見られたし、あんたも近くにいればこの先も安心ね」と、以前の厳しい母よりも穏やかな表情が増えてきたのを覚えています。
「アルツハイマー型認知症」と診断された母
母の様子に異変を感じたのは、およそ10年前。母が78歳になったタイミングです。少しづつ物忘れが激しくなり、ついさっき食べた夕飯のことも忘れてしまうようになりました。私のことを忘れてしまったり、なにも言わずに家の外を徘徊することが増えてきました。
私はすぐに、これは認知症の兆候かもしれない、と思ったんです。ですが、症状は1日もすると止み、もとの母に戻るので、確信が持てない状況でした。正直言ってあの気丈な母が認知症かもしれない、ということを信じたくない思いがあったのかもしれませんが……。
本人は自身の症状のことを理解していません。症状が出ているときの姿を携帯で動画で撮って見せたことがあるのですが、「こんなことをするはずがない! なにかの間違いだ」と怒り、まったく聞き入れません。
そんな日々を繰り返すにつれて、次第に症状は頻繁に現れるようになりました。さすがにこれは認知症だと私も思うようになりました。ある日、定期検診とごまかし、母を病院へ連れて行ったのです。
――診断はアルツハイマー型認知症でした。
私は、母の介護を本格的に行うようになりました。妹はすでに離れた地で家族があるため、そう簡単に来てもらうことができません。このごろは、まだ家のなかを歩き回ったり、外に出かけたりすることはできますが、料理をしようものなら鍋を火にかけたままにして焦がしてしまったり、買い物をすれば同じ食材を何度も何度も買ってきてしまったり、財布を持っていくのを忘れて私があとからお金を払いにいったこともありました。
ただ、母はそれでも自分が認知症だということを認めたがらないのです。本人からしたら、「忘れたことすら忘れている」ので無理もないことかもしれません。私は平日仕事があるため、日中は母の面倒をずっと見ることができず、訪問看護を依頼することにしました。