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「何かあれば実家に戻ればいい」が口癖だった
「何かあれば実家に戻ればいい。住むところがあれば、生きていけるっしょ」
東京都内で暮らす高橋直人さん(仮名・48歳)。高校卒業後に上京。東京で暮らすことに憧れていた直人さんは、会社員として働いた時期もありましたが、長くは続きませんでした。
現在はアルバイトを掛け持ちしています。月収は15万円ほど。貯金も多くありません。
ただ、本人はそれほど困っているとは感じていませんでした。
「正社員にこだわる必要もない。嫌になったら辞めればいい。東京には仕事もあるし、今の生活が気楽なんです」
家賃を払いながら暮らしていくには、決して余裕のある収入ではありません。それでも、直人さんには一つの安心材料がありました。
実家です。
地方の実家には79歳の母親、京子さん(仮名)が一人で暮らしていました。
父親はすでに亡くなっています。家は築年数こそ経っていましたが、京子さんが暮らすには十分な広さでした。
直人さんは年に1〜2回、実家に帰る程度。母親から「そろそろ将来のことを考えたら」と言われることもありましたが、そのたびに同じように答えていました。
「まあ、何かあったら戻るから」
京子さんも、それ以上は追求しませんでした。
総務省『労働力調査』によると、2025年平均の非正規の職員・従業員は2,128万人。役員を除く雇用者に占める割合は36.5%でした。非正規で働くこと自体は、問題ありません。ただ、収入や雇用が安定しにくい場合、老後の住まいや生活費をどう確保するかは早い段階から考えておく必要があります。
直人さんの場合、そうした問題を先送りできた理由の一つが、「実家がある」という安心感でした。
ところが、ある日のことです。
仕事を終えてスマートフォンを見ると、母親からLINEが届いていました。
〈家を処分することにしました〉
短いメッセージです。直人さんは、すぐには意味を理解できませんでした。
「家を処分するって……売るってこと?」
母親に電話をかけると、京子さんは落ち着いた声で説明しました。79歳になり、これから一人で家を維持していくことを考えた結果、今の家を売却して、きょうだいの住む町に引っ越すといいます。
直人さんが最も気になったのは、別のことでした。
「じゃあ、俺が戻るときはどうするの?」
そう尋ねると、母親は少し間を置いて答えました。
「直人が戻ってくるころには、もうこの家はないかもしれないね」
そこで初めて、直人さんは気づきました。
自分が「いつでも戻れる」と思っていた実家は、母親にとっては、自分自身の老後を考えて決めるべき住まいでもあったのです。