定年後の生活において、いつから年金を受け取り始めるかは老後のライフスタイルを大きく左右する決断です。減額リスクを受け入れて早期受給を選ぶ「繰上げ受給」は、健康で動けるうちに家族との時間や自由な生活を優先したい層にとって、重要な選択肢の一つとなります。事例を見ていきましょう。※事例の人物名はすべて仮名です。
「年金、繰り上げといて、よかったな…」年金減額で〈月15万円〉受給する61歳元会社員の男性。病院で告げられたひ言で、過去の決断に確信を持ったワケ (※写真はイメージです/PIXTA)

60歳で早めの完全リタイアに踏み切った理由

都内の中堅企業で38年間、真面目一筋で勤め上げたマサキさん(61歳)。妻のミナミさん(59歳)とともに一男一女の二人兄妹を育て上げ、子どもたちはそれぞれ独立。家族のための肩の荷が下りた60歳の定年時、マサハルさんは迷わず会社を退職する道を選びました。

 

「貯金もそんなにあるわけじゃないけれど、38年も懸命に働いてきたし、もう心身ともに疲れ果ててしまった。年金制度がいつ崩壊するかもわからないんだから、先にもらえるものはもらっておこう」

 

周囲の同僚が65歳までの再雇用を選ぶなか、マサキさんは60歳からの「年金の繰上げ受給」手続きを行いました。65歳からの満額受給と比べて24%減額されたものの、元会社員だったマサキさんの厚生年金と基礎年金を合わせた受給額は月約15万円。一方、妻のミナミさんは「私は65歳まで繰り上げずに満額でもらうわ」と話し、週3日ほど近所のスーパーでパート勤務を継続。マサキさんの月15万円の年金とミナミさんのパート収入があれば、贅沢をしなければ夫婦二人で質素に暮らしていく分にはなんら困りませんでした。

 

現役時代の忙しない日々から解放され、毎朝夫婦でゆったりとお茶を飲む穏やかな時間が戻ってきたのです。しかし、繰上げ受給を始めて1年が過ぎた61歳の夏、その平和な日常は突然破られました。

 

強いだるさと腹痛を覚えて受診した総合病院で、医師から冷酷な事実を告げられます。

 

「末期の進行性ガンです。すでにほかの臓器にも転移しており、余命は半年から長くて1年ほどとお考えください」

 

診察室で絶望に打ちひしがれるミナミさんの横で、マサハルさんの頭にふと浮かんだのは、1年前に下したあの決断でした。

 

(ああ……あのとき、無理をして再雇用で働かずに、退職しておいて本当によかった……)

 

もし65歳の定年まで我慢して働き続けていたら、自分の病気に気づく間もなく倒れ、退職後の自由な時間を1日も味わうことなく人生を終えていたかもしれません。60歳で仕事を辞め、繰り上げた年金で過ごしたこの1年間があったからこそ、妻と静かでかけがえのない時間を重ねることができたのだと、過去の決断に強い確信を持ちました。

 

さらにその後、マサハルさんが若いころに加入し、30年以上一度も使わずに保険料を払い続けてきた生命保険から、ガン診断確定一時金として「100万円」が給付されました。

 

「この100万円を使って、旅行に行こう」

 

二人はマサキさんの体調がいい日を見計らい、ずっと行きたかった有名温泉地の老舗旅館へ出かけました。湧き出る温泉に浸かり、美味しい旬の料理を味わいながら、これまでの人生と家族の思い出を語り合いました。湯上がりに部屋の窓から夕日を眺めながら、マサハルさんは穏やかな笑顔でミナミさんに語りかけました。

 

「年金、早くもらっておいて、本当によかったな……。おかげでこうやって、ミナミとゆっくり過ごす時間が作れたよ。後悔は一つもないよ」

 

ミナミさんは涙を拭いながら、夫の手を固く握りしめました。