(※画像はイメージです/PIXTA)
式の翌日、実の両親に明かした転職の話
結婚式の翌日、息子Sさんがお礼のために自分の実家を訪れました。
おかえりも、おつかれさまも、日常にそんな挨拶はないような家です。久しぶりに親子3人で食卓を囲みました。しばらくは穏やかな時間が流れます。すると母Yさんは、思い出したかのように、いつもの調子で話しはじめました。
「いいお式だったわねえ。……でもAちゃん、ちょっと背中のお肉がはみ出してたわよね。もうちょっとダイエットしてからドレスを着たらよかったのに」
それに合わせて笑う父Tさん。おそらくからかったつもりかもしれませんが、このタイミングでは単なる陰口です。母Yさんはさらに言葉を重ねました。
「お義父様も、経営者っていったって中小でしょう。社員が何百人といるわけじゃないんだし。不景気だから潰れるかもしれないわね。退職金だって満足に出ないんじゃないかしら。Sは公務員でよかったわ」
母親に悪気はないとは、Sさんも理解しています。しかし、この批判癖は今後必ず両家でトラブルを起こすでしょう。
「そういう話はいいから」とたしなめるSさん。そして軽い感じで両親に報告があると続けました。
「実は、今年いっぱいで役所のほうは退職するんだ。お義父さんの会社に入ることにした」
両親は驚きます。「なにをいってるの! 公務員を捨てるなんて正気じゃないわ! あんな中小企業に入ってどうするの! 釣りとかして、遊んで暮らせるほどの会社じゃないでしょ! 退職金だってどうなるかわからないのよ! 転職なんかやめなさい!」と母。
父も「公務員を辞めるだと!? 年収480万円の安定した身分を捨てて、いつ倒産するかわからない中小企業にいくなど、正気の沙汰じゃない! どうせ年収は下がるしボーナスだってないんだろ! 退職金2,200万円も捨てるのか!」怒りを露わにします。
Sさんはまったく動じることはありませんでした。事前にその反応がわかっていたかのように、淡々と告げました。
「年収は800万円と提示されてる。退職金は約束はされてないけどいまから退職金なんか考えてないよ」
「そんなの嘘に決まってる。民間なんて嘘だらけだ。800万円なんてもらえるわけがない。あの男に騙されてるんじゃないのか! 退職金2,200万円なんて民間はくれないぞ」。父Tさんがいいます。
「父さん、その退職金のためにどれほど悪口をいってきたの。父さんが仕事している姿、楽しそうに見えたことがないよ」
両親の言葉がピタリと止まりました。
まだ若い息子に、定年間際の自分の年収すら超える条件が提示されているという現実。自分が唯一の誇りにしてきた「公務員の安定」や「2,200万円の退職金」という盾が、あまりにあっけなく粉々に砕け散った瞬間でした。
Sさんは静かに言葉を重ねます。
「誰かをけなさないと自分の意見をいえない親のもとで育って、僕は10代20代を楽しく生きられなかった。公務員になったのも、当時、父さんと母さんが公務員以外の就職先は全部倒産するとかいうから、それに合わせてしまった。でもいま、自分の生きる道が初めて見つかったんだ」
しかし両親はもはやSさんの話など聞いていません。ショックを受けた様子を隠せません。また誰かを悪くいおうとする空気が漂っています。その空気にSさんは敏感なのです。義父のHさんのことか、妻のAさんか。Sさんは両親に口を挟ませず、こう告げます。
「父さんと母さんは、僕が好きになったものを、一度も認めてくれなかった。お金のこともそうだよ。父さんは退職金や年金を自慢するけれど、僕たち家族に心からの笑顔があったかい? 人のことを悪くいわないと話ができない。そういうこの家が、もう嫌なんだ」
そして、こう続けました。
「実はいまAは妊娠している。太るのも当たり前じゃないか。なにが背中のお肉が、だよ。こうやって、今度は生まれてきた孫のことも陰口をいうのだろうから、本当にもう、僕に関わらないでほしい」
そして静かに家を出ていきました。唖然とするTさんとYさん。なにをいわれたのかさえよく理解できません。「転職なんかやめさせなきゃな」と父親がいいます。「あんな気取った奴らに洗脳されやがって」。
人はそう簡単には変われません。たとえ、子どもから自分たちが毒親なのだという意味のことを突きつけられたとしても。
Sさんから拒絶された二人が、遠くからやっと孫の姿を見ることができたのは、それから6年後、小学校の入学式の校門前のことでした。
公務員と民間、お金の面ではどちらが得なのか
父Tさんのいう「公務員は勝ち組」は、お金の面だけで見れば半分は事実です。総務省の令和7年地方公務員給与実態調査(2026年8月公表)では、一般行政職で25年以上勤続して定年退職した人の退職手当は平均2,226万5,000円でした。Tさんの2,200万円は、ほぼ平均どおりの数字です。
ただし民間がすべて「泥舟」というのももちろん事実ではありません。大企業に勤める男性の定年退職金は大学卒で平均2,139万6,000円、公務員とほとんど差がありません。差が開くのは中小企業で、大学卒でも1,091万8,000円と、大企業との差は1,000万円以上になります。新婦の父Hさんのような社員30名の会社に退職金制度がないケースも少なくなく、長男Sさんが「退職金は約束されていない」といったのは、この現実を踏まえた発言でしょう。
公務員の強みは金額より確実性にあります。民間の退職金は会社の任意制度で業績次第ですが、公務員は法律と条例で決まっており、勤め上げれば予定どおり受け取れます。年金も、2015年の一元化で共済年金は厚生年金に統合されましたが、民間の企業年金に当たる「退職等年金給付」が上乗せされ、老後の土台は厚めです。住宅ローンの審査でも、公務員の安定収入は民間の同年収より有利になるとされています。
一方で、公務員の側にも見落とされがちな点があります。退職手当の定年時平均は10年前と比べて47都道府県すべてで下落しており、「公務員だから一生安泰」は昔ほど確かではありません。副業も原則として制限され、収入の上限は年功の枠内に収まります。定年が65歳へ段階的に延長されている途中で、退職金を受け取る時期も後ろへずれていきます。民間には倒産や減給のリスクがある代わりに、Sさんに提示された800万円のように、若いうちから収入の天井が高いという裏返しの強みがあります。
お金の面だけを比べれば、公務員は、大きく増えることはなくても、減りにくい働き方です。民間は、増えるときも減るときも振れ幅が大きい働き方です。どちらが正しいということはなく、自分に合う生き方がどちらか選ぶという視点が重要です。
長岡 理知
長岡FP事務所
代表
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