十分な資産を得て早期リタイアを果たしても、家庭内の摩擦や社会的孤立に直面することも。金銭的ゆとりがあっても、夫婦の距離感や生活リズムの崩れは関係を急速に悪化させる――なぜリタイア後にすれ違いが生じるのか。ある夫婦の事例から、良好な夫婦関係と自身の役割を再構築するためのポイントを見ていきます。
「夫のFIREなんて迷惑です」〈年収800万円・45歳妻〉と〈資産1.5億円・48歳夫〉、家庭崩壊の危機を救った「夫の行動」 ※写真はイメージです/PIXTA

「パパってヒモ?」冷え切る家庭

一方で、不満を募らせていたのは美咲さんだけではありません。誠さん自身もまた、人知れず精神的に追い詰められていました。近所の住民から「旦那さんは昼間から私服でブラブラして、何のお仕事をされているの?」と尋ねられるたび、肩身の狭い思いをしていたといいます。決定打となったのは、小学校高学年の娘からの容赦のない一言でした。

 

「パパって仕事を辞めてからずっと家にいるけど、ママのヒモなの?」

 

誠さんは当時の心境をこう明かします。

 

「娘にそう聞かれた時、プライドが砕け散りました。会社に行ってはいないけれど、家族の生活を支えている誇りはあったんです。家事を完璧にこなして妻をサポートしようにも、料理も掃除も苦手で裏目に出るばかり。会社を辞めてから、何もかもがうまくいっていない……鬱々とした毎日だったんです」

 

夫婦の会話は途切れ、食卓の空気は冷え切りました。当時を振り返り、夫婦は「このままでは家庭が崩壊する」と考えていたといいます。そんな状況を打破しようと行動に移したのは誠さん。仕事への復帰を決めました。

 

「ただお金を得るためでなく、父親としての威厳を取り戻すために、といいますか。きちんと働いている背中を見せようと思ったんです」

 

誠さんはかつての同僚の紹介を受け、地元のITスタートアップ企業で非常勤顧問の仕事に就きました。勤務条件は週2日、1日3時間。給料は月額10万円ほどですが、誠さんにとっては金額以上の価値がありました。さらに誠さんは、余った時間を使って地域の中学生向けプログラミング教室のボランティア活動も始めました。週2日の「出社」とボランティア活動により、ソファで過ごすこともなくなったといいます。

 

「週に2日、決まった時間にスーツを着て外に出る。たったそれだけのことで、頭の霧が晴れたような感覚になりました。娘も『お父さんはヒモ』とは思わなくなったのではないでしょうか」

 

木下家では夫婦関係が穏やかさを取り戻しています。誠さんは非常勤顧問としての収入とボランティア活動を両立させながら、家庭内でも無理のない範囲で風呂掃除やゴミ出しを分担するようになりました。

 

「夫が週に数日でも外に出るようになって、家の中に適度な距離感が生まれました。毎日顔を合わせていた時は相手の欠点ばかり目につきましたが、家にいない時間があると思うと、何となく優しくなれる」と美咲さんは言います。

 

配偶者とは適度な距離感があったほうがいいケースがあります。国立社会保障・人口問題研究所『第7回全国家庭動向調査(2022年)』によると、夫婦間で「心配事や悩み事を相談する」割合は69.3%(2008年73.9%)、「予定などを話す」割合は79.6%(同81.1%)と、夫婦のコミュニケーションは減少傾向にあります。


距離が近すぎるからこそ生じる歪みに対し、今回の誠さんのように適度な外的つながりを持って「自立した個」としての時間をつくることが、結果的にお互いへの感謝や対話を呼び戻し、良好な夫婦関係を再構築する契機になったようです。