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定年後の静かすぎる食卓
「今日は何か予定あるの」
朝食の準備を終えた佐々木美智子さん(65歳・仮名)は、食卓に座る夫・洋一さん(67歳・仮名)へ声をかけます。
「別に」
返ってきたのは、その一言だけでした。洋一さんはテレビから目を離しません。美智子さんも、それ以上は何も聞きませんでした。築50年になる分譲団地で暮らし始めて30年以上。子ども2人は独立し、今は夫婦だけです。
洋一さんは60歳まで会社員として働き、再雇用で65歳まで働きました。現在の収入は夫婦合わせて月25万円ほどの年金。加えて洋一さんの退職金も含めた預貯金が2,000万円ほど残っています。
金融経済教育推進機構の『家計の金融行動に関する世論調査(二人以上世帯調査)2025年』によると、60代の金融資産保有額は平均2,683万円、中央値は1,400万円です。佐々木家の2,000万円という預貯金は中央値を上回っており、一般的な水準以上といえます。
一方、同調査で60代が考える「老後のひと月当たり最低予想生活費」の平均は39万円。それに対して佐々木さん夫婦は、管理費・修繕積立金が月約2万円、光熱費は約1万8,000円、食費約3万円、通信費約6,000円、医療費1万5,000円――孫のための出費を合わせても、毎月の支出は15万円程度。余った年金で、預貯金は少しずつ増えていくといいます。
「お金には困っていないんです」
夫の洋一さんはそう話します。それでも食卓には会話がありません。朝は新聞を読み、昼は散歩をし、夕方には帰宅する。その繰り返しです。美智子さんは韓国ドラマや近所の買い物を楽しみ、それぞれが個々の日常を送っています。
夫婦が顔を合わせる夕食の場でも、やはり会話はありません。ただ静かに時間だけが過ぎていきます。
現役時代、洋一さんは仕事中心の生活でした。帰宅は毎日遅く、休日も疲れて寝ていることが多かったといいます。単身赴任をしていたときもあり、子育ても近所付き合いも、美智子さんが担ってきました。
「現役時代、家族との時間はほとんどなかった。学校の行事もすべて妻に任せていた。私は家族を支えるために仕事を頑張る、それだけでいいと思っていた。夫婦水入らずの時間は、仕事を辞めてからでいいと思っていた。でもいざ、そのときが来たら、何も話すことがないんです」
退職後、夫婦で温泉旅行へ出かけたことがあります。ところが車中でも宿でも会話はほとんど続きませんでした。
「早く家へ帰りたいとさえ、思ったんです」
以来、一緒に外出することはなくなりました。朝食も時間をずらして食べます。買い物も別々です。寝室も5年前から別になりました。しかし、喧嘩はありません。険悪になることもありません。何か話しかけてもお互いに反応が薄く、次第に話すこと自体がなくなっていったからです。
「何か語るにしても、共通の話題がないんです。子どもたちの話をしても、あの人にとっては、いつの間にか大きくなった――そんな感じなんでしょうね」
長年積み重なった生活の距離は、定年を迎えても埋まらなかったのです。
「こんな老後になるとは思わなかった。夫婦、一緒にいるはずなのに孤独を感じます」