(※写真はイメージです/PIXTA)
東京に残した87歳母の異変
地方での穏やかな暮らしがすっかり日常に馴染んでいたころ、妻・アスカさんは87歳の母の誕生日に電話を掛けましたが、出なかったのでLINEを送りました。母は新しい物好きで、87歳ながらスマホを使いこなす人でした。アスカさんが連絡をしたのは朝。LINEの返信が来たのは、夜中の2時でした。返信が遅いことはいつものことなので、あまり気に留めていなかったものの、その内容に異変を感じました。
「いまからそっちに行くね」「アスカ、いまどこにいるの?」夜中の2時です。すぐさま母に電話を掛けてみました。
「あ、アスカ。いまからあなたの家に行こうと思っていたの」と、突拍子もないことを言い出し、そのほかの受け答えがなんだかぼんやりとしており、以前と様子が違うのです。
朝になって、急遽東京の実家へ帰省することにしたアスカさん。出迎えてくれた母は、前に比べて足元がおぼつかなくなっており、家のなかも散らかっています。
その日はいったん自宅に戻ることにし、アスカさんはサトシさんに切り出しました。
「お母さんのことなんだけど……。足腰が随分と弱くなっていて、認知症のような症状が出ているようにみえるの。これ以上のひとり暮らしはもう無理だと思う。私が実家に戻って、そばで身の回りの世話をしてあげたいと考えているんだけど、どうかしら?」
実はアスカさん、学生時代という早い段階で父親を亡くしていました。それ以来、母親が父親の分まで身を粉にして働き、彼女を大学まで卒業させてくれたという深い恩義があります。「どんなに感謝してもしきれない大切な母親が困っているときだからこそ、今度は自分がそばにいて支えたい」と願うのは、娘として気持ちでしょう。
しかし、この相談はサトシさんにとってまったくの想定外であり、受け入れ難いものでした。せっかく二人で長年の夢だった地方移住を叶えたのに、なぜいまになって水を差すようなことをいうのか――そんな不満が先立ったのでしょう。
「二人で何度も話し合って、納得してここに越してきたはずだろう。なぜいまになって、そんな急な話を言い出すんだ」
サトシさんの拒絶するような冷淡な態度に、アスカさんの心には強い憤りと失望が湧き上がりました。
「夫とのこれからの生活が大切なのはいうまでもありません。でも、私を育ててくれた母も同じくらいかけがえのない存在です。その気持ちに、夫は少しも寄り添おうとしてくれませんでした」
「移住離婚」という厳しい現実
念願だった「地方移住」を達成したからといって、その後の人生がすべて順風満帆に進むとは限りません。環境の変化や予期せぬトラブルをきっかけに、夫婦の絆に亀裂が入り、「移住離婚」という結末を迎えるケースは珍しくないのです。
新しいコミュニティに馴染めず孤立してしまうことや、理想と現実のギャップに苦しむことなど原因は多岐にわたりますが、「移住後に生じた重大な悩みや家庭の危機に対して、パートナーが真摯に耳を傾けてくれない」というすれ違いも、別れを決意する大きな要因となります。
地方で暮らしているからといって、都会に残してきた親の老後や介護の問題から自由になれるわけではありません。移住先が実家に近ければ行き来も可能ですが、距離が離れている場合、それまでの移住生活を一時的に中断するか、あるいは終了させなければならない局面に立たされることもあります。
厚生労働省「令和7年分 介護給付費等実態統計月報」によると、公的に介護や支援を必要とする人の割合は、「75〜79歳」の段階では全体の11.6%に留まるものの、「80〜84歳」になると26.2%に急増し、「85歳以上」に達すると実に60.1%へと跳ね上がります。つまり、85歳を超えると3人に2人はなにらかのサポートなしには生きていけなくなるのが現実です。アスカさんの母親は87歳。誰の助けも借りずに自立した生活を送れていることのほうが、むしろ少数派だといえます。
「それなら、お義母さんにはどこか適切な施設に入ってもらうしかないんじゃないか」
サトシさんが放ったこの一言が、アスカさんの心を完全に冷めさせてしまいました。地方への移住という大きなライフイベントを固い結束で乗り越えたはずの夫婦でしたが、突如として目の前に現れた親の介護という現実の壁を、ともに乗り越えることはできませんでした。
結局、アスカさんはサトシさんの理解と同意を得られないまま、荷物をまとめて東京の実家へと戻る道を選びました。物理的な距離はやがて決定的な精神の隔たりを生み出し、現在も二人のあいだに修復の兆しはみえていません。あくまで地方での暮らしを守り続けたいサトシさんと、そんな夫の態度に愛想を尽かしかけているアスカさん。二人の関係が正式に終わりを迎えるのは、もはや時間の問題かもしれません。
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