(※写真はイメージです/PIXTA)
東京を少し離れただけなのに…
誤算は、金銭的な負担だけにとどまりませんでした。5年の歳月を経て博さんが65歳、美智子さんが63歳となり、体力の衰えを自覚し始めたことで、日常の買い物や通院のハードルの高さが浮き彫りになってきました。
物件を購入する際、博さんは「東京の隣の県だし、地図で見ても数キロしか離れていないから大丈夫だ」と考えていました。しかし、最寄りのスーパーまでは徒歩20分以上かかり、歩道には起伏の激しい坂道が続きます。都心にいた頃は、マンションの目の前にコンビニエンスストアがあり、徒歩5分圏内に複数のスーパーやクリニックが集まっていました。
「数年前に免許を自主返納してしまったので、移動はすべてバスか徒歩です。しかしバスは1時間に1本か2本しかなく、足腰の弱い妻にとって毎日の買い物は重労働でした」
さらに、周囲に頼れる人が誰もいないという孤独感も深まっていきました。杉並区に住んでいた頃は、長年の付き合いがある近隣住民や、趣味のサークル活動を通じて日常的な会話の機会が豊富にありました。
しかし、移住したエリアはいわゆる“トカイナカ”と称されるところでした。新たな転入者が多く、干渉を避ける都市型ライフスタイルが定着していて、近所付き合いが希薄でした。
内閣府『令和5年度高齢社会対策総合調査』によると、高齢者が住み替え先に期待することのトップ3は「買い物が便利なこと」「医療・福祉施設が充実していること」「交通の便が良いこと」が占めています。現役時代であれば多少の不便は乗り越えられても、体力が低下する高齢期において、日々の買い物や通院のハードルは想像以上に生活の質を脅かします。
さらに、見知らぬ土地への移住は、長年築き上げた人間関係をリセットすることになり、社会的孤立を深めるリスクも伴います。目先の住居費の安さだけに目を奪われず、10年後、20年後の自身の身体状況や生活圏の利便性を総合的に見据えた、慎重な場所選びが不可欠なのです。
「安物買いの銭失い」となった老後の教訓
移住から5年が経過した現在、佐藤さん夫婦の自宅には、売却を依頼するために数社の不動産会社から取り寄せた査定書が置かれています。しかし、提示された査定額はいずれも、購入時の380万円を大幅に下回る「100万円前後」という厳しいものでした。
修繕積立金の大幅な値上げが決まった物件や、管理状態に課題を抱える築古マンションは、中古市場における資産価値が著しく低下します。買い手がつきにくいため売却活動は難航することが予想され、仮に売却できたとしても手元に残る現金はごくわずかです。
一度都心を手放してしまった夫婦にとって、再び東京で賃貸物件を借り直すための初期費用や、その後の家賃を捻出することは、経済的には大きすぎる負担です。
「目先の安さに目を奪われ、維持管理のリスクや自分たちの体力の衰えを計算に入れていませんでした。今はただ、あの住み慣れた東京の街に帰りたい、そればかりを考えてしまいます」