メーカーの部長職を定年退職したトシゴロウさん(仮名/65歳)。現役時代は月収110万円を稼ぎ出す一方で、家のことはすべて妻のミドリさん(仮名/62歳)に任せてきました。しかし、退職から一夜明けた日。余韻に浸る彼を待っていたのは、予想だにしない「通告」でした――。
「お疲れさま」は昨日まで…元部長・月収110万だった家事未経験の65歳定年夫に、主婦の妻が任命した『お昼ご飯係』。退職翌日から始まった、思いのほか“面白い老後” (※写真はイメージです/PIXTA)

定年退職後の初めての家事

退職初日の正午。リビングのソファで新聞を読んでいたトシゴロウさんは、妻の背中に向かって声をかけました。

 

「ミドリ、お昼はなにかな?」

 

すると、ミドリさんは紺色のエプロンをトシゴロウさんに向かって差し出します。

 

「今日から、お昼ご飯はあなたが作って。あなたは『お昼ご飯係』よ」

 

トシゴロウさんは耳を疑いました。「40年近く働いてきたんだ。少しはゆっくりさせてくれ」と反論しましたが、ミドリさんの意思は固いものでした。

 

「あなたがずっと家にいる分、私の家事は増えるのよ。もし自分で作らないなら、毎日外で食べてきて。もちろんお小遣いの範囲でね」

 

観念したトシゴロウさんが初日に挑んだのは、クックパッドで最初に目についたチャーハンでした。しかし、不慣れな料理に悪戦苦闘。出来上がったチャーハンは、お米がべちゃべちゃしていて、正直いって美味しくありませんでしたが、妻は笑顔で食べていました。

 

二人で食べ終えると、トシゴロウさんは食器をテーブルに置いたまま、ソファにごろんと横になります。現役時代の休日の癖がそのまま出た形です。それをみていたミドリさんは、夫の頭をはたきました。

 

「ちょっと、なに休んでいるの? 片付けまでが『お昼ご飯係』の仕事よ。あなたが使ったあとの台所をみて」

 

ミドリさんが指差した先には、シンクに山積みになった調理器具と、ベタベタになった床が。トシゴロウさんは「作ってやったのに」という言葉を飲み込み、ミドリさんの剣幕に押されて渋々立ち上がりました。

「並行処理」の習得と、プライドを懸けたピザ作り

「食べ終わってからやるんじゃなくて、調理の合間に洗うの。お湯が沸くあいだ、玉ねぎを炒めているあいだに、使い終わったボウルから片付けて」

 

ミドリさんの指導により、トシゴロウさんは「片付けながら調理を進める」というマルチタスクを意識するようになりました。元来の生真面目さから、彼はこれを「キッチン・ワークフローの最適化」と捉え、徐々に手際を改善させていきました。

 

料理に慣れてくると、トシゴロウさんの凝り性が頭をもたげます。「世界のお昼ご飯」というレシピ本を買い、珍しい食材をネットで購入して、原価が少し高くなりますが、週1回は世界各国の料理を振る舞うように。なかでもこだわりを持ったのは、イタリア料理。「市販の生地は面白くない」と、ピザを生地から作りはじめたのです。しかし、初戦は惨敗でした。

 

ドライイーストの扱いや発酵時間の加減がわからず、焼き上がったのはふっくらしたピザではなく、薄くて硬い、まるでお煎餅のようなバリバリとした食感の物体でした。「……計算どおりにいかない」。トシゴロウさんは、不出来なピザを噛み締めながら、本気で悔しがります。仕事でミスをみつけたときのような深刻な顔で、失敗の原因をノートに書き留める日々が始まりました。