内閣府の「令和6年版 高齢社会白書」では、高齢男性の「社会的孤立」が深刻な課題として浮き彫りになっています。近所付き合いや地域活動に参加しない男性の割合は女性より高く、退職と同時に「所属」を失う喪失感は想像を絶します。こうした孤独から逃れるための「人生リセット」としての地方移住。しかし、一方の妻も同じ気持ちとは限らず……。60代のTさん夫婦の事例から、夢の地方移住の現実的なリスクに迫ります。※個人の特定を防ぐため、事例は一部脚色しています。
「田舎に住みたいと言ったじゃないか…」胸を高鳴らせて5年準備した地方移住・引っ越しの日、大手メーカーを定年退職した65歳夫は激怒。大自然のなかでスローライフを望んだ60歳妻が「ドタキャン」したワケ (※画像はイメージです/PIXTA)

5年間の「独りよがりな」準備

それからの5年間は、移住についての情報収集に費やしました。

 

妻を連れて全国各地の田舎を訪れてみました。都内で開催される移住フェアにも足を運び、すでに移住した先輩夫婦たちの体験談に耳を傾けます。この情報収集の主役は夫Tさん。妻はTさんに付き添うだけ。夫から感想を求められると、妻は「いいね」「素敵だね」と同調するばかり。

 

夫Tさんは、妻のテンションがどんどん低くなっていくことに気づいていませんでした。

 

最終的に夫Tさんが決めたのは、小さな町でした。移住者支援が充実しており、気候も温暖で、温泉も近い。なにより、夫Tさんが二度三度と足を運ぶうちに地元の人たちとも顔なじみになり、「引っ越してくる日を待ってるよ」と言われるほどの関係が育っていたのです。

 

夫Tさんは定年後の生活費シミュレーションも丁寧に行いました。都内の自宅マンションを売却すれば、現地に土地付きの一戸建てを購入しても相当の余裕が生まれます。家庭菜園を楽しみながら、退職金と年金、これまでの貯蓄で十分に暮らしていける計算でした。

 

妻Aさんがやってみたかったというガーデニングも、十分楽しめる広さの庭があります。「どう? 待ちきれないんじゃないか?」と夫Tさんが妻に質問すると、「うん、そうだね……」と言葉は多くありません。何冊か買ってきたガーデニング雑誌も読んでいる様子はありません。

定年退職に情緒が揺さぶられる夫、祝ってくれた妻

そして迎えた65歳の春。夫Tさんは無事に定年退職を迎えました。

 

送別会のようなものは一切なく、私物を入れた紙袋を片手に帰宅したTさんを出迎えた妻Aさんは、手料理でささやかなお祝いをしました。二人でグラスを合わせながら、「いよいよ引っ越しだな」と夫Tさんがいうと、妻はなにも答えず微笑んでいるだけ。その日は静かに眠りにつきました。

 

定年退職前に想像していたとおり、退職した翌日から孤独感が襲ってきました。もう会社に行かなくていいのは楽だけど、きっと今日から誰からも連絡は来ない。会社から持ち帰ってきた私物を特に確認もせずごみ袋に詰めていると、やはり自分の人生への虚しさがこみ上げてきました。

 

「家族を養うために頑張ってきた、自分の人生は無駄にしたかもしれないけれど、これからやり直せるさ」

 

移住をして、あの町の一員になって人生をやり直そう。地元の人の歓迎ぶりだけが望みです。マンションの売却の段取りも済み、引っ越し業者を手配しはじめたころ、妻Aさんが改まって「少し話がしたい」とTさんに言いました。